ドリーム小説  あなたが悲しむことなどしたくないとは
 なんて偽善的






ちゃん、おはよう。」


「わ、吃驚した。おはよう。」


 学校へ向かう途中、後ろからぱたぱたとした忙しない足音が聞こえたと思ったら、レンがぽんっと私の後頭部に手を載せて軽く押した。少し前へつんのめって、私は慌ててレンの方を見る。


「今日もカイト先輩は一緒じゃないの?」


「うん、実習の準備で毎日朝から大変みたいだよ。」


 大学生活は二ヶ月を過ぎた。カイト先輩とは水、木曜日は共に朝一番の授業があったので、大体その前日に泊まってもらい、一緒に登校していた。


「三年から凄い忙しいんだよね、やっぱり。」


「カイト先輩げっそりしてるもん、心配だなあ。」


 ようやっと来週から本格的に始まる実習に向けて奮起しているようなのだが、先日会った時は顔色が悪く、睡眠不足でお疲れの様子であった。かくいう私とレンはまだ呑気なもので、大体同じ授業を取る形となっているので、大半の時間は一緒にいる。
 レンは木曜日に丸々一日授業を入れておらず、私は火曜日に同様、休みを取っていた。その代わり、二人して他の四日はほぼ全コマを取ることとなっており、同じ専攻であれば受ける授業も大概被るものだ。きっとカイト先輩はそれを、よくは思っていない。そんなことは、分かっている。しかしわざと図ったわけでもなく、そんなものは他の者にも言えることなのだから、と何処か開き直っていた。


「そういえばちゃんって、塾のバイト、どれくらい入ってるの?」


 自然と隣に並んで歩きながら、レンが唐突に問い掛けてくる。


「今は週3で6コマ分やってるよ。どうして?」


「んー、僕も塾講のバイトしたいなあって。」


「いいじゃん、大変だけど勉強になるよ。」


 四月に始めたばかりの分際で、大変だなんだと語れるような身分ではないのだが、私はレンが同様のものに興味を抱いてくれたことを素直に嬉しく思った。


「親の援助もあるけど、出来れば無くても生活出来るくらいの給料が欲しいから、そうなると塾講師って、なかなか良いよね。」


「うん、私の所は結構給料良いよ。一コマ三千円だしね。それを週3だから、仕送りと合わせたらなんとかやっていけるし。でも、もうちょっと稼ぎたいんだけどね。」


 自分が受ける授業でさえ手いっぱいなのだから、この日数が限界だとも言えた。


「そっかあ。僕もやってみようかなあ。」


「レンならきっと人気の先生になれそうだね。」


「またまたあ。」


 そんな談笑を交わしながら、校舎に入ると、ちょうどよくカイト先輩が入口すぐのテラスでコーヒーを飲んでいた。


「カイト先輩、おはよう。」


「んぁ、、おはよう。鏡音君も。」


 いきなり声を掛けたからか、間抜けな声を漏らしてカイト先輩が返事をした。


「おはようございます。準備大変みたいですね。」


 レンが労うような声色でそっと声を掛けると、カイト先輩が小さく頷いた。


「二人とも二年後には同じように辛い思いするんだからね、他人事じゃないからね。」


 恨み節でそんなことを言うカイトは、やはり睡眠不足が祟って隈を作った不健康そうな顔色であった。


「あ、ちょっと待ってて。」


 カイト先輩にコンビニで何か買ってあげようと思い、そう行ってその場から離れた。
 大学の校内のコンビニは品揃えはそこまで良くないが、栄養ドリンクの種類だけは豊富だった。私はそこから三本ほど取って、レジで会計を済ませた。


 二人の所へ戻ろうとすると、遠目から二人が何か話している様子が窺える。レンがからりと笑っている表情を見せているので、私は随分ほっとした。カイト先輩が私のためにレンと仲良くしようとしてくれているのを知っている。だが、本音で言えばそれがしたいわけではないことも分かっている。私はカイト先輩の優しさに甘えているだけなのだ。しかし、二人が談笑しているのを見れば、案外仲良くやっていけるのではないかという、楽観的な考えが浮かんで、私は頬を緩めずにはいられない。


「カイト先輩、これどうぞ。」


「え、わ。ありがとう。嬉しい。」


 私がコンビニの袋を差し出すと、受け取るなり中を覗き込んで破顔する。カイト先輩のぽかぽかするようなこの笑顔が好きだ。癒やされる。


「今日で準備も大体終わるから、夜遊びに行っていい?」


「うん、待ってるよ。」


 土日を迎える前になんとか準備が終えられるということで安心した。もし今日一日で終わらなければ明日も大学へ来る羽目になっていただろう。
 カイト先輩はよし、と小さな声で自分を鼓舞して立ち上がる。また教室へ戻るようだ。


「僕達もそろそろ行かなきゃいけないんじゃない?」


 そんなカイト先輩につられてレンが腕時計を見やって言う。


「本当だ。じゃあ、カイト先輩頑張ってね。」


「うん、と鏡音君もね。」


 ひらひらと手を振って別れると、私達は少し急ぎ足で教室へ向かった。






 金曜日の一限目のこの講義が好きだ。スクリーンで流される洋画。字幕で英語が表示されている。観終わってから次回の授業でディスカッションを英語で行うのだが、観たことのある映画なら大凡意味が分かるものの、観たことの無い物だと、なかなかこれが難しい。ノートに取っているような時間も無いし、後日DVDをレンタルしに行って見直すこととなる。
 今日は趣向を変えたのか、日本語と英語が入り混じったアメリカ映画だった。


「I have seen this.」


 隣で前を見つめていたレンがこそっと私に囁いた。授業はすべて英語で行われるため、レンはそれに則って、悪戯めいた笑みを浮かべた。
 愛と哀しみの旅路という映画だが、サスペンスやミステリーを好むはずのレンにしては珍しいものだった。私は観たことがない。しかし物語が進むに連れて、日本語も混ざっているおかげか、分かりやすくて内容も理解出来た。日系人女性とアメリカ人の男性が結婚したが、世界大戦の最中で散り散りになる。戦争映画というべきなのだろうか、そういったシーンは少ないものの、日系人差別で収容所へ送られてしまう人々や男性が拙く歌う日本語の歌、印象に残る映画だった。
 授業を終えて、レンと次の教室へ向かいながら、愛する人と離れ離れになる想いを、体験した事もないのに、さも今がそうであるかのような感傷に浸っていた。


「ちょっと哀しい映画だったね。」


 私がそう呟くように話かけると、レンは微笑んだ。


「一応救われた話だけど、物語のメインが差別問題だからね。僕もあの映画は雰囲気も独特で好きだなあ。」


「私も。来週の予習のためにもDVD借りてこようかな。」


「あ、僕もしかしたらDVDが家にあるかも。焼いたやつで良ければ貸そうか?」


「本当?助かるー。」


 レンの申し出に礼を言うと、レンは優しく微笑む。彼のこの笑顔が、私を幸せにしていた過去が、まさに今甦って、少しだけセンチメンタルになってしまった。






 ー ごめん、今日遅くなるから行けそうにない。明日昼から会おう。


 カイト先輩からのそんなメールが入ったのは夜八時を回ってからだった。遅くなっても会えるなら、と思ってはいたが、連日の疲れがあることも分かっていたので致し方ない。


 ー 分かったよ。無理しないでね!明日起きたらまた連絡してね。


 私がそう返事をすると、泣いている動物の絵文字が送り返されてきた。カイト先輩は私なんかよりも絵文字を使いこなしている所がある。いつも何かしら可愛らしい絵文字やら、ハートマークを付けて送ってくれるので、以前、どんな顔してこういう絵文字を打ってるの、と意地悪を言ったら小突かれた。
 部屋の細々した物を片付けて、晩御飯をカイト先輩と一緒に食べようと思っていたため、まだ何も食べていないことを思い出す。おかずを温めて、食卓に並べてみたものの、二人分の、しかもカイト先輩は大食いなので単純に二人前以上の料理を前に、私はどうしたものかと首を傾げた。
 そんなことをしていると、玄関のベルが鳴ってびくついた。。私は不用心だとカイト先輩に言われるのだが、普段ベルが鳴るとカイト先輩だと分かっているので確認もせず玄関の扉を開ける。しかし、先程のメールがあったばかりだ。はて、誰なのだろうか、と私はインターフォンの映像を覗き込んだ。画質は悪いものの、そこにいるのが見覚えのある人物だったので、応答もせずに玄関の扉を開け放った。


「確認もせずに開けるなんて、不用心だよ。」


 私の姿を見るなりそう言われて、私は笑った。


「カメラで見たもん。でもどうしたの、いきなり。」


 そこには夕方まで一緒に授業を受けていたレンが立っていた。私の問いかけにレンは小さな紙袋を差し出す。


「DVD、あったからさ。カイト先輩が来るなら一緒に観れるだろうし、と思って。」


 私はレンの手から紙袋を受け取り中身を確認する。


「ありがとう。でも他のは何?」


「あ、他のはね、なんかDVD整頓してたらちゃんが好きそうな洋画があったから、勝手に貸しちゃおうってやつ。もし興味があったらどうぞ。」


 ディスクが何枚かあるように見えたので尋ねると、レンははにかんだように笑った。


「いいの?ありがとう。今日カイト先輩来れなくなっちゃったから暇だったんだ。早速観るよ。」


「残念だったね。でも僕的には面白いから、暇潰しにくらいはなると思うよ。」


 そう言って、レンは用件は済んだとばかりに、じゃあねと言って帰ろうとする。私はそれを。


「れ、レン!」


 思わず呼び止めた。
 折角会えると思っていたカイト先輩が来ないから寂しいのか、私はレンともう少し話がしたかった。


「ん?」


 どうしたの、とレンがこちらを覗き込む。その視線を向けられると、心臓の中心から針が飛び出すようにちくちくするのだ。レンの瞳は、昔から私を絡め取って離さない、蜘蛛の巣みたいに、そこに存在していた。


「晩御飯、食べた?」


 後ろめたい気持ちがないわけではない。でも友達だから、と言い訳を自分に繰り返しながら、私はようやっと言葉を紡いだ。レンは私の言葉の間を不思議に思ったのか、少しだけ目を丸くして私を見つめたまま首を横に振る。


「今まさに、ラーメン食べに行こうってところだよ。」


 いつもの、と続けるレンに、私は近所の美味しいラーメン屋のことだとすぐに分かった。レンが以前見つけたらしく、一度だけカイト先輩も含めて三人で食べに行ったことがあった。レンは酷く気に入っているようで、しょっちゅう食べに行っているらしい。それほどその店が気に入っているレンに、今から行くと聞いたのでは、私が繋ぎ止める由もない。


「そっかあ、美味しかったもんね。」


ちゃんもまだ晩御飯食べてないなら一緒に行く?」


 もう少しだけ、話していたい、そんな気持ちから頷きかけたが、先程テーブルに用意してしまった料理のことを思うと、私は首を横に振った。


「ううん、私、晩御飯作っちゃったの。カイト先輩の分もあったんだけど、来れなくなったから凄い余っちゃいそうで・・・。」


 だから食べていかないか、と言えばいいのに、そこで言葉を区切る自分はなんて卑しいのだろう。私が誘うのではなく、レンが考えついたこと、といった逃げ道を用意して、私はレンが一緒に夕食をともにしてくれるのを期待している。


「そうなの?じゃあご馳走してよ。」


 レンがなんてことない、けろっとした表情でそう言うので、私は思わず顔をぱっと明るくさせてしまった。


ちゃん、分かりやすすぎるよ、相変わらず。」


 レンはそう言いながら、次第にけたけたと笑い出した。昔からレンはそうして私をからかうのだ。


「すぐそうやって馬鹿にするー。」


 私が不満たらしく口を尖らせてみたものの、レンは笑ったままだ。からかわれても、まあ良いか、と思えるのは、相手がこの柔和であり、どこか艶っぽい笑みでもってして私に向かってくるからだろう。レンの笑顔はこれから先も、きっと彼の人生で良い役回りをするだろうなあ、などと考えていると、レンが私を覗き込む。


「晩御飯、もらってもいいの?」


「あ、うん!勿論。上がって。」


 私が促すとレンは頷いてから部屋へ入った。






 レンと部屋で二人きり。私は少しだけ緊張した。何か起こるわけではないことを分かっていながら、それでも後ろめたいような心持ち。


ちゃん、料理出来たんだね。美味しい。」


 レンがテーブルを挟んだ向かい側で私の作った手料理をぱくぱくと口へ運んでそう言った。


「人並みにね。得意とまではいかないけど。レンこそ、お菓子とか作れるのに、夕飯とかいつも作らないの?」


 オレンジのタルトを昔作ってくれたことがあった。今は亡き、レンのお爺さんがお菓子作りが上手だと教えてくれた時の、隣にいたレンの不貞腐れた表情が、可愛かった。


「お菓子作りと料理は全く別物だよ。僕料理はてんで駄目だね。全部醤油っからくなっちゃうもん。」


 鶏肉をトマトソースで和えたソテーを随分気に入った様子で、やたら口に運びながらレンが答えた。


「そういうものなのかなあ?」


「そういうものだよ。」


 美味しい、と呟きながら食べているレンの姿を正面に、私も箸を進める。
 いつもはカイト先輩が座っている椅子に、レンが居る。その光景がさもあの時からずっとレンと居て、今日という日もその日常の内の一コマであるような錯覚。それほどに、私にとってレンという存在は心地が良い。
 カイト先輩の与えてくれる安心感。彼には私へ安らぎを与えるだけの包容力がある。
 レンはまた違った。こうしていることが必然であるかのような、体や空気だけではなく、互いの心臓がぴたりと吸い付くような心地があった。不安でありながら、ここが一番安心するような、少しだけ落ち着かない感覚。それでいて離れたくない。
 レンはどうなのだろう。私と居て、どう感じるのだろう。一緒に居るとされていたのは過去のことなのだ。過ぎたことなのに、気になって仕方が無い。それが人間の性である。今の私を、どんな気持ちで見ているのだろう。


 私はいまだに、ドキドキしてしまう。
 いけない感情。


 そんなことを考えていると、レンがいつの間にか料理を平らげていて、何やら楽しそうにこちらを見ていた。


「また百面相。」


 そんなことを悪戯っぽい笑みで言われて、私はどきりとした。


「何考えてたの?」


 続けて尋ねられて、私は首を横に振った。答えられないからだ。


「何でもないよ。ご飯食べてくれてありがとう。助かっちゃった。」


「こちらこそ、ご馳走様。美味しかったよ。」


 レンはそう言うとカタンと立ち上がり、空いた皿を手に持った。


「あ、片付けなくていいよ。後でやるから。」


「え、お皿かぴかぴになっちゃうじゃん。」


 何言ってんの、とでも言うようなキョトンとした表情を見せて、レンが手際良くテーブルの物を片付け始めてしまうので、私は申し訳ないと思いながら、一緒に片付けた。
 実家にいた時も、レンはいつもこうして何も言わずに片付けてくれた。やはり昔に戻ってしまったような感覚。レンがあまりに自然だから余計に混乱する。でも、恋人同士であった頃の思い出話をするのは躊躇われた。私がまるで、レンに未だ縛られていると思われたくなかった。私自身もそう思いたくない。
 違う。本当はレンに、過去の話だ、とあしらわれたくないだけだ。レンがまだ、私を少しでも好きでいて欲しい、そんな願望から来る、私の妄想を壊して欲しくないだけなのだ。レンに愛される喜びを知ってしまっているからこそ、それを手放したくないのだ。なんて汚い感情だろう。


「なんか、こうしてるとさ。」


「え?」


 最後の皿を運びながら、レンがぽつりと紡ぎ出したので、私は続きを聞く前に思わず声を漏らした。


ちゃんの実家にいた時みたいだね。」


 がしゃんと、皿が大きな音を立てて流し台に落ちた。自分の手から滑り落ちたのだ。私のあからさまな動揺。


「大丈夫?お皿は・・・割れてない。吃驚するじゃん、どうしたの?」


 レンがあたふたとしてそう語りかけるのを、私はなんて答えればいいのか分からずに、一瞬息を飲んだ。しかし、このままでいるわけにもいかない。


「ご、めん。手が滑ったの。割れなくて良かった。」


 なるべく平静を装ってそう言って、私は顔面に笑みを貼り付けた。レンはそんな私の目を覗き込む。澄んだ翡翠色。深くまで潜り込みたくなるような中の藍色。聖書の一説には、神が水を二つに分けて空と海が出来たというが、レンの瞳の中にはその二つが分かつ前のような色味があった。
 なんとなく気まずくて、私がキッチンをいそいそと出るとレンも後に続いて、何するでもなく、お互い元居た場所に腰掛けた。






ちゃん、ごめんね。」


 暫くの沈黙の後、突然ぽつりとレンが呟いたので、私は顔を上げた。しかしレンの瞳を見ると、またあの綺麗な色が見えてしまって戸惑う。何が、と目で訴えると、レンは困ったように眉尻を下げる。


「ずっと謝りたかったんだ。ちゃんに酷いことばっかり言って、ちゃんから直接本当の気持ちも聞かずに、逃げ出したこと。ちゃんは優しくしてくれたし、僕をたくさん幸せな気持ちにしてくれたのに、泣かしちゃってごめんね。」


 今更、と言えたら良かった。言えればどれだけ自分が楽だったことか。しかし、レンが思い出させるあの過去の産物に、私は引き戻されてしまう。あの時の、レンを傷付けておきながら、泣いて感傷に浸ることばかり上手だった自分。そして、レンを好きで仕方がなかった自分。


 レンに嫌われたくなかった。愛されていたかった。ずっと側に居て欲しかった。


ちゃん、お願い。泣かないで。」


 レンが躊躇いがちに、テーブルの上に置かれた私の手を弱々しく取って、困ったように言う。その言葉で私は初めて、自分が泣いていることに気が付いた。私は慌てて片手をレンのそれから引き抜いて涙を拭った。


「ご、ごめん。何で泣いちゃうんだろう・・・。」


 泣いていいわけがない。私は経緯はどうであれ、カイト先輩を選んだのだ。ここで泣いてしまうのは、レンに未練があるからだと裏付けてしまうことになる。そんなわけがない、あってはいけない、と私はぐりぐりと眼をこすった。するとレンがそれに見兼ねたかのように、目元に当てた私の手を掴んだ。


「真っ赤になってるよ。そんなに擦ったって意味ないから。僕が変な事を言ったからだね、ごめんね。」


「違う、私、私が悪いの・・・。」


 小さくしゃくりをあげながら私は首を横に振った。わたしの手首を掴むレンのてが、やはりひんやりとしていて気持ちが良かった。


「私がレンのこと、傷付けたから・・・、私は本当ならレンのそばに居る資格なんてないよ、レンに憎まれてもおかしくないの。」


「そんなことないよ。僕はちゃんを憎んでなんかいないよ。ちゃんに幸せになって欲しいし、欲を言えばそれを近くで見届けたいんだ。」


 子供を諭すような優しい口調に、私は顔を上げてレンを見つめた。こうして見ると、あの時と変わっていないようで、やはり少しだけ大人びたように見える。薄い唇が優しく笑みを浮かべている。私を安心させようとしてくれている。それはレンがこの街を一度去ってから今までの間に、何かがレンをそうさせるような、大きな変化があったからに違いない。それが何かは分からずとも、私はレンのその笑みが嘘で無いことだけは分かった。だから辛いのだ。レンに優しくされたいのに、優しくされると甘えたくなるという、酷く身勝手な自分。考えれば考えるほど余計に情けなくて涙が零れる。
 泣き止まない私に痺れを切らしたレンは、立ち上がると私の座っている椅子の横にしゃがみ込んだ。そしてそのひんやりとした白い手を私の背にとんっと乗せて撫でてくれる。


「どうして泣くの?僕、嫌なこと言った?ごめんね。」


 ゆったりとした調子で背を撫でられると、それが嬉しくて余計に辛かった。


「違、う・・・、レ、レンに好きでいてほしいって、ずっと、ずっと・・・好きでいてほしいって考えちゃうの・・・。そんなの自分勝手なの、分かってるのに・・・、レンに優しくされると、嬉しくなる、自分が、嫌なの・・・。」


 胸の内を吐露すると、幾分か楽になったが、緩んだ涙腺を堰き止めることは出来なかった。これ以上の醜態を晒すわけにはいかないのに、私はとうとう手で顔を覆った。泣いているくせに、どこか頭の隅で冷静な自分が、レンならこんな私を見捨てずに側に居てくれるのではないか、と考えていた。歪んでいる。
 すると、ぐいっと私の体が大きく傾いて、私は椅子から転げ落ちるように床へぺたんと座り込んだ。驚きのあまり、ふと手を離すと視界が開けて、自分がレンに抱きしめられていることが理解できた。


「やめてよ、ちゃん。そういうこと言われると、どうしていいのか分からないよ。」


 苦しげに訴えるレンの声に胸が痛んだ。また私は身勝手に、レンの気持ちも考慮せずに語ってしまった。レンに抱きしめられた身体が熱い。


「ごめん、レン・・・。」


「謝るのは僕の方だよ。」


 私の言葉を遮るようにレンは語気を強くした。私が声を出せずにいると、レンは一層強く抱きしめてきた。カイト先輩の顔が脳裏によぎる。それなのに、この腕から逃れられない。


「本当に、教師になりたいだけで、僕がここに来たと戻ってきたって思ってる?」


 レンが何か言おうとしている。それが何か、分からない。私は何も返事が出来ずにいたが、レンは意に介さず続けた。


「僕は今でもちゃんが好きなんだよ。だから奪い返しにきたんだ。でも、カイト先輩と幸せそうにしてるちゃんを見て・・・。本当にちゃんを好きなら、僕はそれを壊すべきじゃないなって、やっと思えてきたのに・・・。」


 嘘、とレンの言葉に私は声にならず口の中で漏らした。思わず私を抱きとめるレンの顔を見上げた。彼の首元から優しい匂いがする。


「レン・・・。」


 何か言わなくては、と思いながら呼んでみるものの、続きが紡げない。するとレンは泣きそうな表情で私をじっと見つめる。そして、私の名前を呼んだ。






「僕は、ちゃんを奪ってもいいの?」






 一瞬でも、奪い去ってほしいと、考えてしまった。


 私はまた、誰かをいたずらに傷付けるの?




















―あとがき―
ちょっと今回はかなり長くなってしまいました。久しぶりにレン中心で。
書き終えていたのに更新作業が出来なくて遅くなりました。
私事ですが、父が手術に失敗して入院してしまい大変でした。
先日無事退院して、後遺症も心配ないようなので一安心です。

140623















































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