ドリーム小説  でもさネリー、俺が二十回殴り倒してやっても、
 エドガーが今より醜男になるわけでもないし、
 俺が今よりハンサムになるわけでもないだろう。
 ああ、俺にもあんな金髪で白い肌があればなあ。


 ヒースクリフはそう言っていた。
 レンには金髪も白い肌もある。
 でも何か、おどろおどろしいものが、渦巻いているような、そんな気がした。






「レン、お待たせ。」


 更衣室から出ると目の前のベンチにレンが腰掛けて、読書に耽っていた。私の声に一瞬遅れて顔を上げると、その陶器のような白い顔がゆったりと微笑みを浮かべる。


「お疲れ様。」


 いつになくご機嫌な様子と伺えるレンに、私は歩み寄って手に持っていた本の表題を見る。


「良いの読んでるね。」


「でしょう?部屋の本棚整頓してたら出てきたから久しぶりにね。」


 モーパッサンの女の一生の茶ばんだ文庫は随分と長い年月を経ているような体である。


「レンの持ってる本って全体的に古いね。私、本は新品で買うタイプ。」


 中古の本はなんだか苦手だ。顔も知らない赤の他人がずっと触っていたものだと思うと、少し気分が悪い。


「僕のは大体おじいちゃんのだよ。おじいちゃんが日本に来た時に日本語の勉強にって買ったみたいで、それを僕が貰ったんだ。これもそうだよ。」


 流石レンのお爺さん、良いセンスだ。


「モーパッサンなら首飾りも私は好きだなあ。」


「あ、良いよね。読み終わった後の良い意味で不快感っていうか、遣る瀬無さがね。」


 こうして物語について語り合えるのはレンだけだ。少しその場で談笑してから家路につく。






 長い時間急行電車に揺られて、私達はレンの家へ帰る。今日は勉強もそこそこに切り上げ、私は予め鞄に潜ませていた箱を取り出した。


「レン、ハッピーバレンタイン!」


 いつにも増して機嫌が良かったのはきっと今日がバレンタインだからだ。レンは待ってましたとばかりに顔を輝かせて私から箱を受け取った。


「やった!いつ貰えるんだと思ったよ。」


 先日、ちゃんと手作りすると宣言してしまった以上、私は下手なものは渡せないと、少し前から試作品を作るほどの徹底振りを見せていた。きっとどう足掻いてもレンの作るお菓子に比べてしまえば味も見た目も劣るに決まっている。しかしレンは楽しみにしてくれていたのだ。開けて良いか尋ねてくるレンに頷くと、いそいそとした指付きで包装用紙を開いていく。破らないように気を遣ってくれているようで、そんなの良いのに、と私は少し笑ってしまう。


「わ、美味しそう。いただきます。」


 見た目も味もまずまずなはず、と緊張しながら私はレンがチョコを口に放り込むのを見つめた。アーモンドがカリッと砕ける音が篭って聞こえると、レンは目をまん丸くした。


「凄い美味しいよ、ちゃん!」


「本当?良かったあ。レンの作ったお菓子が美味しすぎるから、ハードル高かったよ。」


 私がふざけてそう言うと、さらにもう一つつまんで、また美味しいとにんまり笑う。レンの満たされた表情に安堵する。


「こういうチョコって何て言うんだっけ、インディアンみたいなやつ。」


「惜しい、マンディアンね。」


「そうそう、それ。」


 アーモンドや細かいドライフルーツを乗せた見栄えの良いチョコレート。レンは分かってすっきりした、と言ってまた一つ。沢山作ってきたけれど、そんなにぱくぱく食べてしまうとすぐに無くなりそうだ。それだけ美味しいと思ってくれているのだと思えば、それはそれで良いのかもしれない。


「あ、あとね、これおじいさんの分。」


 私はレンに渡したものより一回り小さい袋を差し出した。


「ええ、そんな気遣わなくて良かったのに。」


 なんだか悪いなあ、とレンは受け取りながら言った。本当は直接渡したかったのだが、今夜は趣味で通っている読書会に行ってしまっており家を開けているとのことだったので、レンに託す形となった。


「おじいちゃんには何作ったの?」


「ん、同じやつだよ。マンディアン。」


 本当は違うものを作るべきかと思ったけれど、こっちが良かったあっちが良かった、となってしまいたくないので、結局同じ物を大量に作るに至った。


「僕にだけじゃないんだ、マンディアン。」


 唇を尖らせて、大袈裟にいじけた振りをするレンが可愛くて私は思わず笑ってしまった。


「ごめんね、でもお世話になってるから、どうしてもあげたかったの。」


 いつも夜遅くまで入り浸っている私に、やれ菓子だお茶だと振舞ってくれるレンのお爺さんの気遣いにとても嬉しく思っているのだ。


「他には誰かにあげてない?」


 ささくれが糸に軽く引っかかるような、そんな些細な違和感。最近のレンはどうにもおかしい。


「あげてないよ。あ、お父さんとお母さんにはあげたけど・・・。」


「本当?」


 本当だよ、と頷くと安心し切った笑顔。
 最近、信頼されていない気がする。レンの笑顔の本意が分からなくなってしまって、私もレンを訝しんでしまう。
 私が悪い。分かっている。


「来年も同じクラスになれるといいね。」


 レンが唐突に切り出したそれが、私の怪訝な思いを悟って空気を変えようとしてくれているのかもしれない、と思えた。それによって、私の中の靄が消えるわけではない。


「文系クラスは多いから不安だね。レンと一緒がいいな。」


 私とレンは来年からの学科選択の希望に文系クラスと記入して提出した。理系クラスは二つ、文系クラスは五つのクラスに分けられる。必然的に同じクラスになれる可能性は格段に低くなるのだが、レンに理系クラスなんて行かせてしまえば、授業について行けなくなるのが目に見えている。私もどちらかといえば理数科授業よりも文科系授業の方が得意だ。二人で理由は違えど同じ物を選ぶ事に何もおかしな点はない。


「一緒だったらやっぱり僕たちは運命だね。まあ、もし違うクラスになっても、毎回、休憩時間に会いに行くけどね。」


 覆してやる、とばかりに、ふふ、と微笑んでレンが言うので、私は温かな気持ちで満たされる。大丈夫、恐れる事は何もない、そう思って微笑み返すと、レンがテーブル越しに身体を近付けて触れるだけのキスをしてくれる。
 やさしい香り。










「男からでも別に良いでしょ?女の子からだけなんて決まってないんだしね。」


 そんなことを言い置いて、無理矢理手渡された包装用紙には、カイト先輩からの遅過ぎるバレンタインデーのプレゼント。下校しようとレンと昇降口に向かう途中でばったり会って、彼はこの包みを渡してきた。バレンタインデーは半月近く過ぎている。しかも彼は卒業を間近に控えて自由登校。一ヶ月近く顔を合わせることはなかったのだ。
 そう、明日は卒業式だ。前日の準備に追われて部活動は全部休みである。そして卒業式の準備を終えた私達は帰ろうとして居た所だったというのに。


「何貰ったの?」


 レンはいつもと変わらない表情だが、明らかに不機嫌なのが分かる。カイト先輩とばったり会った瞬間から、レンの纏う空気は凍てついていた。


「何だろう・・・。」


 思わず声が強張って、私は小さく返してしまった。今この場でこの包みを放り投げてしまえたらどれだけ楽なことか。
 開けてみたら、と半ば命令のようにも感じるレンの言葉に私はこれまた小さく頷いてから、割とずっしりした重みのある袋の口を開いた。


 現れたのは一冊の本だ。


「竹久夢二の画集?」


 私の手元を見たレンが、不思議そうに声を出した。私にとっても不思議な贈り物である。竹久夢二の話なぞした記憶がない。


「カイト先輩が好きなの?」


 続けてレンがそう尋ねてきた。私は思わず目を見開いて、何を言い出すのだとばかりにレンを見たが、竹久夢二のことを、と補足がすぐさま加えられた。意味を取り違えて妙な事を口走りそうになる寸前に押し留める事が出来て幸いであった。


「分からないけど、そうなの、かな?」


 私はそのような会話をしたことがあったか、記憶を手繰り寄せてみる。すると、すぐに思い出す会話があった。


「そういえば、私が海外作家の本が好きだっていう話をした時に、カイト先輩は本も絵も日本のものが好きだって言ってたことがあったよ。」


 彼がまだ部活に在籍していた時、一度だけレンが図書室で寝てしまったため、部活が終わってからも姿を現さなかったことがある。その時、私はベンチに腰掛けてヘッセの「デミアン」を読みながらレンの迎えを待っていた。その時にそのような会話をするに至ったのだが、随分前の話だ。


「でも、そうなら普通、ちゃんの趣味に合わせたものを送ってきそうなのにね。」


 ごもっともなレンの意見に私は頷いた。


「それにしても、良い度胸だよね。僕の前で渡してくるなんて。喧嘩売ってるとしか思えないよ、僕。」


 吐息を漏らすように、どこか自嘲的にも見える笑みを浮かべて紡がれた言葉に、レンの心境が見て取れた。とても苛立っているのであろう。それは私だって理解できる。もし逆の立場であれば嫉妬で怒り狂いそうなものだ。しかし、別の疑問がよぎる。
 レンは、カイト先輩と私の話を知っているのかもしれない。
 夏祭りのあの日、告白され、キスをされ、一方的であったにしても、拒絶しなかった自分に非があることは明白だ。レンを傷付けたくない、否、レンに嫌われたくないという保身的な感情で、レンには隠し続けてきたのだ。不安はあったものの、我ながら良くも悪くも、レンと変わらない関係性で過ごしてこれたはずなのだ。もし知っているとしたら何故知っているのだ。私の言動や行動におかしな点があったのだろうか。知っているわけがない、と高をくくっていたが、ここ最近のレンの言動が異性、殊にカイト先輩への敵意に満ち満ちていること。これはもはや見過ごすことは出来ない違和感であった。
 そしてカイト先輩の今の行動。何か試されているような、釈然としない、ぼんやりとした焦り。


「お世話になった先輩だし、好意を無碍には出来ないよ。」


 私を責めているつもりではないのかもしれないが、私は思わず自己弁護じみた言葉で切り返した。






 帰り道、私たちはどことなく会話が途切れ途切れ、いつになく気まずい沈黙が流れたり、ぽつぽつと紡がれるお互いの声が、言外に何か潜めているような、居た堪れない時間を過ごした。
 私が正直に打ち明けてしまえば、私は楽になる。私の罪がひとつ減る。しかしレンの心はどうなるのだ。私を好きだと言って、離したくないと言って、喜ばせようとして、頑張ってくれているレンの気持ちは。そう考えれば考えるほど、私は何も言えず、罪を重ねる。裏切り続ける。レンに突き放されたくない、という本音を、相手を想えばこそという綺麗事で正当化して、自分のことばかり守っている。
 隣を歩くレンは、どこか寂しい、ともすれば消え入りそうな寂しい表情。薄暗い弱々しい月の光が、心許ない灰色の空を作りだし、それが余計悲しそうに見せている。レンの家の前に着いてしまい、自然と立ち止まった。ここで手を振ってしまえば、明日からもまた罪を重ねる。私はレンを騙し続ける。


 もう、これ以上は隠していられない。


「レン、あのね、私・・・。」


「ちょっと待って。」


 ずっと黙りこくっていたレンが、はっきりと、酷く澄んだ声で私の言葉を遮った。思わず息を飲む。足が痺れたように震える。レンがゆっくりと俯けていた顔を上げて私を見つめる。その瞳に確かにある青色が、色濃く深く果てしなく見える。


ちゃん、何を話そうとしてる?」


 冷たい眼差しだ。こんなに冷え切った瞳を向けられたことは一度もない。私はそれだけで泣きそうになってしまう。


「私、レンに隠してたことがあるの。」


「それ、言っちゃうの?今?」


 決して大きくない声だが、興奮しているような強い語気に、私はやはり、と確信した。レンは知っていたのだ、私の秘密を。いつから、どこで、どうして。何を思ったのだろう。


「知ってるの・・・?」


 唇が震える。足から頭の先にかけて、ゆっくりと痺れていくような感覚だ。


「知ってるよ。十二月に、カイト先輩から聞いた。」


 じゅうにがつ、と私は声に出さずに唇でなぞった。三ヶ月前。その間に交わした私たちの会話、笑顔、繋いだ指先、レンはどう感じていたのだろう。そんなことばかり考えて、私はたまらずにとうとう涙が溢れた。


「レン、ごめんなさい・・・。私、拒否、出来なくて、言えなくて・・・、裏切って、ごめんね・・・。」


 涙と嗚咽で言葉が途切れてしまう。それでも私は、最大限伝わるように、ゆっくりと紡いだ。


「拒否、出来なかった?」


 訝しむようなレンの声。私は涙がとめどなく溢れて仕方がなかった。レンを直視出来るわけがなく、俯いて、手の甲で涙を拭い、また溢れては拭った。


「いきなり、キス、されて・・・。でも、私が悪い・・・。私がちゃんと、してれば・・・。」


 口を開いて音を出すと、一気に咽び泣きたいほどの感情が込み上げてくる。それを必死に押さえ込みながら、私はレンをちらりと見遣った。
 瞬間、レンの表情が、何かに驚愕したような、そして落胆したような色を浮かべていた。
 もう、だめかもしれない。取り返すことは出来ないかもしれない。
 そんなことが頭の中を駆け巡る。それならそれで良いではないか、レンを騙し続けて、自分だけ幸せを噛み締めているより潔いではないか、と自分に言い聞かせようと試みたが、やはりレンと離れたくない。どう足掻いても結局は自分のことばかりで自己嫌悪に陥る。


「なるほど、ね。」


 レンは何かに納得したように、そんなことを呟いた。理解が出来ずに、今度こそ顔を上げ直すと、レンはずいっと顔を突然近づけて、私の瞳を覗き込んだ。


「待てど暮らせど来ぬ人を。」


 え、と私は思わず声を漏らした。


「宵待草の遣る瀬無さ。今宵は月も出ぬそうな。」


 どこかで聞いたことがあるような詩。突然の言葉に、私は何も言えずに、そして私を見つめる瞳が、急に恐くなって、ごくりと唾を飲んだ。


「レ、ン?」


 唇の端の隙間から、漏れるようにようやく名を呼ぶ。するとレンはゆっくりと顔を離すと、今度は私の頭を撫でる。髪を指に通して梳く、そのレンの優しい華奢な指が好きなのに。今は怖い。
 ゆっくりとレンの口角が上がって、それが笑顔を象っているのを理解するのに、一瞬遅れた。


「竹久夢二の詩。」


「え?」


「愛する人と再会を果たそうとしたのに、その愛する人は別の人に嫁いでいて、竹久夢二は再会できなかったんだ。それでも会いたい、愛しい。どんなに時間を過ごしても二度と会えないのにね。」


 愛する人との予期せぬ別れ。私が今のレンの詩を頭の中で繰り返そうとしていると、ふ、とまた自嘲的な笑みがレンの唇から零れ出す。


「とんでもない宣戦布告をくれたものだね。」


 またレンの顔が近付いて、柔らかいレンの、薄い唇が重なった。
 冬の外気に触れて冷えてしまった、唇。
 血が通っていない人形のような体温。白い肌。青い瞳。
 レンの唇が好きなのに。今は恐い。


「じゃあね。」


 レンは一方的にそう告げて軽く手を振って、玄関へ去っていく。いつもなら私がマンションのゲートをくぐるまで見送ってくれていたレン。
 取り残されて、私は何も言葉が出てこなくて、暫くそのまま立ちすくんでいた。






 待てど暮らせど来ぬ人を
 宵待草の遣る瀬無さ
 今宵は月も出ぬそうな




















―あとがき―
展開しました。ようやくです。
ちなみに竹久夢二の「宵待草」の詩はもっと長いです。
これは後に宵待草の詩を換えて歌として発表されたものです。とても好きな詩です。
冒頭の文章は小説内にも出てきたことのある「嵐が丘」のヒースクリフのセリフです。
記憶で書いてみたので、もしかしたらちょっと違うかもしれませんが。

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