私は長年育った田舎町を丸ごと捨ててしまうようなものだった。大学を卒業して仕事に打ち込みすぎたあまり、休みの日でも友人と会わずに家でくつろいで、翌日の仕事に備えるような生活だった。もうかれこれ二年半は連絡を取っていない。この数字は恋人を作ったために、数少ない休みを口煩い彼に合わせたが為に生まれた数字だった。しかし恋人を失い、これから東京へ行くとなって、いまさら友人と連絡を取るわけでもないので、私を泣いて見送るような人は既に居ない。そんなことを考えていると何だか物悲しくなってしまい、私は仕事帰りに昔よく行っていたバーに行くことにする。しかしこちらも彼と付き合ってからは行っていなかった。仕事が忙しいのも理由の一つだが、彼とマスターを会わせたくなかったのだ。 私は一時期、マスターに片想いしていた。 しかし一年以上の片思いも実らず、諦めかけていた所に彼がやってきて、これも縁の一つだと思い交際を始めたのだ。とにかく、そんな男性を、ただでさえ嫉妬深い彼に会わせると面倒なことになりそうだと思い避けていた。よって、もうこちらも同様に二年半ほど行っていないので、マスターは私のことなんて覚えていないかもしれない。 腕時計が夜十一時過ぎを示していた。ちょうど街中に住む彼の家を出て、自然と足を、より繁華街に向けていたので、今から歩いていけば十分もかからずに着くだろう。 「いらっしゃいませ。」 アンティーク調の戸を開けると、すぐにマスターの声が聞こえてくる。大人っぽくて綺麗な顔立ちからは想像しにくい、子供っぽい少し高めの声色。きっと私のことなど覚えていないだろう彼の声を懐かしんで、扉を閉めてからそこに立ったまま、店内の雰囲気を味わう。ちょうど一人居た客が会計を頼んでいて、マスターはすぐにその客に精算を出して、軽く話をして仲良さ気に手を振られて頭を下げていた。私は戸の横へずれてその人を通すと、マスターが私をもう一度見て「いらっしゃいませ」と言い掛けたが、目を丸くした。 「あれ、もしかしてちゃんじゃないですか?」 私はその懐かしい声に名前を呼ばれて、覚えていてくれたことに嬉しくて笑顔になる。 「お久しぶりです、覚えていてくれたんですか?」 「もちろん覚えてるよ。とりあえず良かったら座って?」 マスターはそう言ってカウンターから出てくると、カウンターの椅子を引いて案内してくれた。相変わらず綺麗な艶やかな金髪と、綺麗な淡い水色の瞳。ハードファイルに挟まれたメニューを目の前で開いて置いてくれたので、私はモスコミュールを頼んだ。昔は何か必ず一番最初に頼む物を決めていたので、入ったらすぐに作ってくれていたのだが、聞かれたら何を頼んでいたのか思い出せずに、適当に頼んだ。マスターはグラスにウォッカやライムジュースなどが注ぎ、バー・スプーンでステアした後に私の前に置く。 「ありがとうございます、マスター。」 私がそのグラスを受け取ってお礼を言う。するとマスターは「ちょっと待ってね。」と言って、一度店の扉を開けて、何かを動かしてから閉めて鍵をかけた。それから冷やしてあったニュートンの瓶の栓を開けて、そのまま私の左隣に座る。 「明日も平日だから、どうせお客さん来ないし、久々にちゃんが来てくれたから閉店しちゃった。」 マスターはそう言って、いたずらっこのように笑う。個人経営の店なんていうのはそんな物なのかと、なんとなくそれで納得しておいた。個人経営の店なのかも知らないが、実際に私はマスター以外にカウンターに立っている人を見たことはないので、勝手にそう思い込んでいる。私はとりあえずマスターに「いいんですか?」なんて疑問な口調で尋ねつつも、心中では特別扱いされていることが嬉しい。「いいの、いいの。」なんて笑うマスターの笑顔は、やはり以前に私が好きになった彼そのものだった。彼は右手で瓶を持って、左腕の肘をカウンターに付き頭を斜めにして支えて、リラックスしている。そこからの視線というのは独特な位置からのもので、見上げられるというか、少し子ども扱いされているかのような、慣れないその視線を私は一生懸命に受け取った。そして私も右手にグラスを持つ。 「乾杯。」 私たちの声は重なった。そして一口、二口含んで飲む。久々にマスターの作ってくれたカクテルを飲んで、私は小さな幸せを手にした気分になった。 「それにしてもちゃん、二年以上振りだよね?」 「そうですね、二年半ぶりくらいかなあ。」 懐かしむような声色で私たちはそう会話すると、何が面白いでもないが微笑みあった。そしてお互いにお酒をまた流し込む。マスターは昔から客の私達と一緒にお酒を飲むことがあったが、その時から飲むのが早いとは思っていたが、私のグラスが三分の二は残っている状態であるのにも関わらず瓶を飲み干してしまった。すると一回席を立ってカウンターの内側に回って、ギロチンを向かい側から自分の座っていた所に置いて、更にピラートとブカニエを取り出して、「どちらにしよう。」というように見比べていたが、結局二本とも同じようにカウンターに置いて、隣に戻ってくる。 「相変わらずベルギーのビールばっかりですね。」 昔からマスターはベルギービールをよく飲んでいて、マイナーな物も通販で何としてでも手に入れようと必死だ。「お客さんは滅多に頼まないけどね。」と苦笑いしていたことがあった。 「そういうちゃんは、変わったね。」 ちょっとつまらなそうに口をちょっと突き出して、わざと子供っぽい表情を作る。変わった、と言われても思い当たらなかったので、返す言葉が見当たらずにきょとんとしていると、マスターは小さく笑う。 「ちゃん、最初の一杯目は絶対にギムレットだったでしょう?」 忘れちゃったの?と付け加えて、少し悲しそうな表情をマスターがするので焦る。そう言われれば確かにそうしていた。マスターの作るギムレットはレノックスの名言の通りにジンとライムジュースが半分ずつで入っているので甘口で飲みやすかったはずだ。 「そう言えばそうだったかも。」 私がそう言うと、マスターは軽く笑った。 「ちゃんはギムレットみたいだって話したことあるよね。」 マスターが柔らかい声で紡ぐのに、私は記憶を呼び戻す。 「そうでしたっけ?何でですか?」 思い出せずに尋ねると、残念というように少し悲しそうな微笑を浮かべる。 「良い所と悪い所って人間ってみんな半々だと思うんだよね。それがどういう味になるかは人それぞれだけど、ちゃんはギムレットみたいな癖の強い甘さがある子になってるよね。」 「マスターって、変ですね。」 私が笑うと、マスターは思いついたように声を漏らす。 「あと、僕のこと、マスターとか呼ばなかったでしょう。よそよそしくなって寂しいー。」 薄い唇が優しく微笑むのが、言葉ほどの感情を持っていないのをありありと見せつける。私はマスターを確かに名前で呼んでいた。それは最初から記憶にあったが、妙な話、二年半も経った今は少し恥ずかしくて抵抗があった。 「なんか久々に来たのに馴れ馴れしいかなって思ったんですよ。」 そう話すとマスターは「呼んでよ。」と駄々っ子のように口を尖らせる。私はグラスを手に取り、残りのモスコミュールを一気に流し込んだ。 「レンさん、ギムレット下さい。」 酒を一気に飲んだせいか、恥ずかしさのせいか、少し声が上擦った。するとマスターのレンさんはまたカウンターに戻り、アイスピックで氷を大きめに砕き、それとジン、ライムジュースをシェイカーに半々入れる。蓋を閉めてシェイカーを持つ。私はそれをぼうっと見つめていた。レンさんのバーテン姿しか知らないが、やはり格好良い。するとレンさんがこちらを見て微笑を湛える。 「やってみる?」 シェイカーを下ろしてそれを少し傾けて尋ねられる。私が大きく頷くと指先でカウンターの内側に呼ばれる。シェイカーを受け取って、見様見真似のポーズを取るとレンさんが私の指に触れる。前触れも無くそんなことをされると柄にもなくドキッとする。しかし無理矢理に私の指を動かすので、一瞬の内に現実に戻される。 「左手の人差し指と中指をここ、右手はこっちにこうだから。」 そんな細かい事を、と思いつつ、私は渋々レンさんに従う。フォームが納得いくものになると、レンさんに許可を得てシェイカーを横に振る。よく昔にテレビを見て振る真似を練習したが、いまいちだった。 「最初からそんな振り方なんて上手く出来ないから、初心者はこうやればいいよ。」 そう言いながらレンさんはジェスチャーをするので、それを真似て振ってみるが、レンさんに横から違う、そうじゃない、などと注意を受ける。 「こうやってするんだよ。」 レンさんが私は背に回って、後ろから私ごと抱え込むように、シェイカーを持つ私の指に自らを添える。そしてゆっくりとシェイカーを振る。背中から伝わる体温が心地よく、私はそれがレンさんの体温だと意識すると恥ずかしくなった。良い年をしてこんなことでときめくのは可笑しな話だ。 「こんな感じで酒の角を取るんだよ。」 ゆっくりと私から離れてレンさんが私一人で振る姿を見守る。少ししてからレンさんが「それくらいでいいよ。」と言うので私は手を止めて、シェイカーをレンさんに渡す。新しいグラスを取り出して、シェイカーの中身をグラスへ円を描きながら注ぎ込む。見慣れた色の筈なのに、自分ですることによりこんなにも違って見えることに小さな喜びを見つける。それを席に置いて二人でまた座る。出来上がったギムレットを口に含むと私は思わず笑みがこぼれた。 「美味しい。」 「よかった。自分で作るとなんか美味しく感じるでしょう?」 微笑みながらレンさんが言うのに私は頷いた。 「僕も自分で作ったお酒が一番好きだから。」 そう言いながらブカニエを飲むので私は思わず笑ってしまった。 「言ってるそばからベルギービールじゃないですか。」 「こいつらは別なんだよ。」 可愛らしく笑ってレンさんがブカニエを掲げる。私はギムレットを何となく掲げてみた。そして転勤の話を教えてみたくなる。別に話さなくても良いのだろうが、何となくレンさんには知っていて欲しかった。 「転勤するんです。」 グラスを飲み干してから、わざと音を綺麗に立てて唐突に私は切り出した。するとレンさんは驚いたように声を漏らした。少し間を空けて彼の口が開く。 「どこに?」 「東京です。」 「いつ?」 「仕事は来週からですけど、明後日には東京へ行きます。」 淡々としたやりとりだ。レンさんの声が寂しさを露わにするのが私を悲しくも嬉しくもさせた。少なくとも私が居なくなるのはレンさんを寂しくさせるということだ。 「それはまた、急だね。」 言葉を詰まらせる彼は私の飲み干したグラスを取ってカウンターの中に戻って、またギムレットを作ってくれる。私はそれを受け取って礼を言った。レンさんが隣に静かに腰掛けて酒を大きく呷る。 「ちゃん、仕事頑張ってたしね。当然なのかもしれないね。」 小さく溜め息を吐いて、「東京ねえ。」と苦笑した。 「たまには帰ってきてよ。」 「はい。」 社交辞令を交わして、私達は何も言わずにまた飲んだ。沈黙が痛いと感じるのは初めてだった。 「彼氏とは遠距離になっちゃうんだね。」 レンさんの言葉に私は驚いてそちらを向く。そんな私の様子を見てレンさんは意味が分かったのか笑みを浮かべて口を開く。 「彼氏と歩いている所を見たことあるんだよ。街中っていってもこんな狭いし、二年半も見かけない方が不思議じゃない?」 言われれば確かにそのような気もするが、私はレンさんを見たことは無かった。それは何故だろうか。 「でも、私はレンさん見たこと無かったですよ。」 素直な疑問をそのまま言葉にすると、レンさんはちょうどブカニエを飲み干して、少し目尻が下げた。 「見なかっただけで、実際に僕は見てるんだから。ちゃんが僕に興味無さ過ぎなんでしょう。」 語尾を軽く上げてつまらなそうな表情をする。それは作り物だと分かっていながらも、その表情がたまらなく愛しくなった。 「そんなことないですよ、たまたま見えなかっただけですよ。」 興味が無いだなんていうのは完璧な誤解だろう。私はかつてレンさんを好きだった頃と変わらないくらい、今、レンさんの一つ一つの言葉や表情を見ては嬉しくなっている。なんというか、自分がここまで単純な生き物だとは思わなかった。 「僕は一方的にちゃんを見つけていたのに、ちゃんは知らなかったなんて狡いよね。」 冗談っぽい口調で私を責める。私は笑って誤魔化した。 「次からは気をつけますよ。」 次なんていうのは無い、今日が最後だと分かっているが明らかな嘘でもそうやって言うのが一番適した返事だと思った。レンさんも少し困ったように笑った。なんだか切なくなる。そこでお互い言葉が出てこなくなってしまい、沈黙がそこを包む。 「彼氏とは別れたんですよ。」 沈黙に耐え切れずに今更、先ほどの言葉を否定する。してもしなくても何も変わらないことなのは分かっている。否定したからといって、この先に何かしらの展開を期待するでもない。するとレンさんは意外だとでも言うように驚いた表情を見せる。 「遠距離恋愛は出来ないの?」 その問いかけ方は、さも私が振ったかのような言い方だ。確かに私は彼をいらないとでも言うように仕事を取って切り捨てたし、好きだったかと訊かれれば頷くことは難しい。しかし、事実上は一応振られた身である。ただ、それを言うのはちっぽけなプライドが何故か許さなかった。 「遠距離恋愛は仕事しながらじゃ無理ですし、そこまで彼に執着出来なかったんですよ。」 「・・・そっか。」 レンさんは私の言葉に小さく返すと、新しいビールをまた開けた。 「僕も前から東京にお店出したいって思ってたんだ。」 ぼそっと呟くようで、独り言のようなレンさんの言葉を耳に受けて、私はレンさんを改めて見つめる。 「出せば良いじゃないですか。」 「一応考えてもいたけどね。でもここは田舎だから良いけど、東京だったら他にも沢山あるから流行らないかもしれない、他にも色々と不安なんだよ。」 なんだか耳に慣れないくらいの弱気な言葉を紡ぐレンさんに、私は思わず少し黙ってしまった。私なんかよりも随分と大人っぽい彼が不安になることがあるなんて、と考えていたら思わず言葉に出てしまっていたようで、レンさんが苦笑した。 「大人になればなる分、不安なんて沢山あるよ。ちゃんは東京に行くことに、抵抗とか不安とか無いの?」 そう尋ねられると、私は先ほどまではスッキリとした気持ちで転勤のことを考えられていたはずなのに、何か変化したことに気付く。心に何かつっかえている気がする。原因はうすうす察しが付くが、それはあまりにも調子の良い話なので考えないようにする。しかし、これを言ったら彼はどういう反応をするのだろうか。それが知りたくなった。興味でしかない。 「レンさんに会えなくなることだけが、嫌です。」 言ってから後悔した。お酒の力に頼って調子に乗りすぎた。こんなことを言えば、レンさんが困るに決まっている。言ったところで出て行くのは私でしかないのに、なんと自分勝手な発言だろうか。私のそんな不安をよそに、レンさんは優しく微笑んで私の頭を撫でた。 「ちゃんが来ないんじゃ、ここで仕事してもつまらないな。」 心地良いリズムで私の髪が揺れる。レンさんの細い指先を感じる。 「前から東京行きを考えてたって、今言ったじゃないですか。」 私が東京へ行こうと行かなかろうと、そんなことは考えていただろうに、適当なことを言うんだと私は苦笑した。するとレンさんは手を下ろして真面目な表情を見せる。 「だから行けなかったんだよ。東京行ったらちゃんに会えなくなっちゃうでしょう?」 何だか掴み所が無い人だ。以前から思っていたが、どこからが本気で、どこまでが営業なのか分からない。私はそのレンさんの言葉を冗談として受け止め、笑って誤魔化すことにした。すると、口先を突き出してレンさんが眉間に小さく皺を寄せて不機嫌そうな顔を作る。 「信じてないでしょう?本当だからね。」 いつになく真剣な声色なので、私はどうして良いのか分からずに黙ってしまった。するとレンさんはため息を吐いて、「もういいよ。」と子供のようにいじけた。そうされると追い掛けたくなるのが人間の性だ。そうだと分かっていながら、私は追いかけてしまう。 「どうしたんですか、からかわないでくださいよ。」 頬が赤くなるのを見られたくない一心で、私は俯いて小さな声でレンさんに訴える。店内が薄暗くて良かった。私は今、恥ずかしさのあまりに変な顔をしているだろう。 「好きだよ。」 レンさんの顔が近づいてその甘い声が私の耳元で囁く。私は返事をするでもなく、それに頷くしか出来なかった。すると彼は左手で私の右頬に触れると軽く手前に引いた。従ってそちらへ顔を向けると彼の唇が触れる。舌を絡め合うと、レンさんの飲んでいたブカニエの味が濃く伝わってくる。頭がぼうっとするのは、キスのせいだろうか、酒のせいだろうか。しばらくして唇が離れると、お互いの唇から引く銀糸がてらてらといやらしく光る。私は言葉を失ったまま、目の前にあるレンさんの瞳を見つめるしか出来なかった。レンさんはもう一度キスをせがむので、また唇を重ねる。 ずっとそうしていたかった。溶けてしまいそうだった。何度も何度もキスを交わすと、その度に私は涙が出てきそうなのを必死に堪えた。この時間は今夜が最初で最後のことだと思うと悲しくて、全てをかなぐり捨てて彼の胸に飛び込んでしまいたかった。何度目かのキスをした時、思わず涙と言葉がこぼれた。 「好きです、レンさん。」 私達はその後、何度も愛し合い、心地良い体温で温めあった。何かを惜しむように必死に求めて、その間も私は涙が止まらなかった。 ふと目が覚めた時、私たちは店内のソファで愛し合っていた筈なのに、見覚えの無いベッドの上に寝ていた。隣ではレンさんが眠っている。ベッドのスプリングをなるべく揺らさないように、そっと体を起こして抜け出した。扉を開けると、階段があって、その下には先ほどまで居たはずの店内が見えた。ここはレンさんの部屋なのだと察しがついた。私達はここまで移動する時間さえを惜しんで愛し合っていたはずだが、きっとレンさんが運んでくれたのだろうと思うと、嬉しいような恥ずかしいような気持ちでむず痒くなる。とりあえず服を着て、時計に目をやると、ちょうどお昼過ぎだった。戸を開けて階段を降りて店に戻ると、私たちが飲んでいたグラスは綺麗に片付けられ、開店前の状態なのであろうキチッとした雰囲気に戻っていた。レンさんは私が眠った後も一人でここに立って片づけをしていたのだ。その時、彼は何を考えていたのだろう。 私は棚からグラスを一つ取り、ジンとライムジュースを借りることにした。教えてもらったはずのシェイカーは、一人ではやはり上手に振ることは出来ない。なんとか出来たギムレットを置いて、私はレジの横にあった紙とペンを取る。 ―― レンさん、ありがとうございました。 最後にレンさんに会えて、本当に嬉しかったです。 好きだよ、と言ってくれたのが嘘であったとしても、私は好きです。 実は昔から好きでした。 一度諦めはしましたが、会ったらすぐに昔に戻ってしまいました。 もう東京へ発ちます。レンさんに会いに来たいとも思いますが、自信はありません。 だから、忘れてしまって結構です。 私は遠くから想い続けられるほど女らしくないです。 仕事できっと手一杯になってしまうから、今日の思い出で充分幸せです。 でも今はレンさんが好きです。 東京へ行っても、レンさんの作るギムレットを飲みたいと思うのかな。 同じ作り方をしてくれるバーを探してみますね。 どうかお元気で。 置手紙の余白にグラスを置いて、私は一度二階に上がった。レンさんはまだ静かな寝息を立てて眠っている。私は気付かれないようにレンさんの白い頬に手を置いて、髪の毛にキスをして店を出た。 東京へ来て半年が経った。私は新しい職場にも慣れて、新しく任される仕事もしっかりとこなしていた。それなりに上司に褒められ、同世代の仲間にも羨まれて、仕事には満足していた。 しかし夜になると寂しくなるのだ。あの夜を思い出す。ギムレットの味を思い出す。悲しくなる。仕事でいっぱいいっぱいになってしまうかと思ったが、私は充実する仕事に反して、レンさんを思う気持ちが募って窮屈で苦しかった。 「お疲れ様です、お先に失礼します。」 私はいつものように書類をまとめると、オフィスを出る。最近は仕事が順調に進みすぎてつまらない程で、遅くても八時には仕事を終えている。明日は公休日なのでこれから一人で街中へ飲みにでも行くつもりだ。 今日はいつもとは違う方の道へと歩いてみる。見たことの無い店が沢山あるが、どこが良いのか分からずに、しばらく歩きながら店の名前を見ていく。 「・・・あ。」 私は思わず声をこぼした。見覚えのある字体と聞き覚えのある名前の店を見つけた。入り口のアンティーク調の扉は、以前見たことのある物に酷似していた。扉の前まで近づいて小さく深呼吸をする。アンティーク調の扉の横には小さく掘られた文字。 To a lady like “gimlet”. 重々しい扉は何故だか懐かしい香り。 「いらっしゃいませ。」 耳に慣れた甘い声。そして柔らかい笑顔が私に向けられた。 「ギムレットを。」 ―あとがき― 公式の設定を悉く無視した仕上がりで、読まれて気分を害された方がいらしたら申し訳ありません。 個人的にはレンはバーテンが似合うという勝手な考えがあって、どうしても書きたかったのです。 ついでに本文では書かなかったのですが、実はレンの方が年下でヒロインが吃驚させられるというシーンが下書きではありました。 大人っぽくて落ち着きのある人が好きなので、こんな像を無理矢理作ってしまいました。 まだKAITOの方が向いていましたね。 次こそはまともなものを書けるように頑張ります。 080701 |