いいよ、とそれだけ答えてレンは笑った。 レンの口から愛の言葉なんて、初めから聞いたこともない。 「私のこと好きじゃないならそう言えばいいじゃん。」 思わぬところで私は泣いた。仕事から帰ってきたレンとご飯を食べて、ろくに見もしないお笑い番組を付けて、私がふざけて抱き着いた時、レンが退屈にあくびをしたからだ。何か普段と違っただろうか。いいや、レンはいつだって冷めている。ただ今日の私が情緒不安定なだけの話なのだ。 「いつ僕が嫌いなんて言ったの?」 泣きっ面の私を呆れた様子で見詰めてそう冷静な声で尋ねる。 「知らないよ!レンが私を見てくれないからでしょう?」 ぶわっとまた涙が勢いを増して、自分でもうざったい。目を取り出してしまいたい。 「また子供みたいなことを・・・。」 「じゃあ今日セックスする?」 別にそうしたくて駄々をこねているわけでもないのだが、レンが私を求める時なんてそんな時くらいしかないのだ。だからセックスの時、私は満たされている。 「したかったんならそう言えばいいじゃん。」 レンは困ったように笑う。確かにレンとのセックスが好きだが、そうではない。レンが考える「したい」と私の「したい」では意味が違うのだ。 「もういい。レンなんか百万回愛してるって言っても許してあげない。」 私がそう言ってもレンはちゃらけて笑う。私がむきになることなんていつものことなのだ。座っていたソファから立ち上がり、私は寝室の扉に手を掛けた。 「許してくれないなら言わないよ。」 ソファの背もたれにだらしなく体を這わせて、レンはこちらを逆さまに覗きながら言った。何故こんな愛情のかけらもない奴が好きなのだろう。私は思わず立ち止まってレンを一度見遣った。 「許しても言わないくせに。」 それだけ言うとレンが目を丸くさせた。その瞳が少し寂し気だったけれど、そのまま部屋に戻った。 レンは何も分かっちゃいないのだ。女心もどれだけレンを好きなのかも。 淋しさを胸にたっぷり詰めて、私はベッドに身を沈めた。 「ちゃん、朝だよ。今日仕事でしょう?」 いつものそんな声で目が覚めた。レンは朝に強いのか、いつも私より早く起きて朝食の準備を整えておいてくれる。そして私の仕事の日はいつもの時間に起こしとくれる。私は寝ぼけ眼でレンを見てから、ふと前夜の苛立ちを思い出したが、レンがあまりにも普通なので、私も引きずっては駄目だと平常を装った。 「ん、おはよう。」 「ちゃん、顔が乾燥してて汚い。」 そう指摘されて目をこすると、確かに肌がぱりぱりした。昨日泣きながら眠ったせいだろう。誰のせいだと思っているのだ。 「うるさい。馬鹿。」 私は顔を洗おうとすぐに立ち上がり、リビングを通過して洗面台に立った。美味しそうな甘い匂いがしたので、きっとホットケーキだろう。私の大好物だ。 顔をざっと洗って髪の毛を梳いてリビングに戻ると、レンが食卓に予想通りホットケーキを並べていた。 「やった、ホットケーキなんて久し振り!」 実際に目の前にして余計に嬉しくなって、私が嬉々として声を漏らすとレンが笑う。 「ホットケーキ好きだねえ。」 「だって甘くて美味しいもん。」 女の子はいつだってきらびやかな物や可愛い物や甘い物に囲まれていたいのだ。レンはブラックコーヒーと、私はこれもまた甘く仕上げられたミルクティーを飲みながら、ちょこんと苺を乗せたホットケーキを食べる。朝のニュースがだらだらと流れていて、政界の話や芸能界の話が報道されている。私はちらりとレンを見たけれど、レンはホットケーキを食べながらテレビに目を向けていた。 別に私はレンと今更べたべたとくっついていたいわけではない。ただ昔からレンに好きだの愛してるだのを言われたことがないのだ。だからたまに不安になる。レンだって人間だから気が抜けてぼんやりとしてしまうことがあるに決まっている。私ばかりにかまけていられないことなんて分かっているのだが、その時、愛の言葉が今まで掛けられていないことで不安がよぎる。 レン、私はレンが好きだよ。頭のてっぺんからつま先まで愛してる。毛先の痛みも足の爪の不揃いな長さも愛しい。 「やばい、肌がめちゃくちゃ乾燥してる。」 「ふぁあ、眠い。」 いつも私達は朝食を済ませてから寝室に戻り、レンはベッドに体を沈めて、私は化粧を始める。 ドレッサーの前で化粧を済ませて私は自分の顔を見ると、少し化粧乗りが悪くてうんざりした。そんな私なんかには興味もないように、レンは欠伸をしながらベッドで寝返りを打った。 「レン、今日予定は?」 「んー、図書館行ってくる。起きれたら。」 仕事が休みのレンは目を擦りながら私にそう答えた。世間は休日だけど、私は残念ながら仕事だ。レンはそういう時、私が仕事に出てからまた寝てしまうらしい。 「わかった。私いつも通りには帰れると思うから。」 私はバッグへ適当に荷物を詰める。レンはのそのそと体を起こして私のその様を見詰めていた。厚いファンデーションで隠したその下のぱりぱりとした皮膚が気になりながらも、私はレンに行ってきます、と声を掛けてから部屋を出た。レンが何か言ったように聞こえたけれど、私は何となく昨日のことが頭を過ぎったせいで振り返るのも癪だったのでそのまま家を飛び出した。 仕事は退屈だ。出勤したはいいものの、私に余計なことを考えさせる余裕が腹立たしい。レンは昔から決して私にくっつくような甘ったるい男ではなかった。それこそ私だってべたべたするのは苦手で学生時代は熟年夫婦だとからかわれたりもした。それが付き合い出して四年経った今、私は無性に愛情と誇れる何かが欲しくてたまらなくなったのだ。それはマンネリに釘を打つ刺激を求めてなのか、私がそもそも変わってしまったのか。そんなことを考えていたらいつの間にか退勤時刻になった。嫌なことを考えていたのに、面倒な仕事はあっという間に片付いてしまったのだから皮肉なものだ。 「お先に失礼します。」 オフィスに残る他の人間にそう伝えて荷物を肩に掛けると、私の世話をしてくれている先輩に呼び止められた。 「さん、傘は?」 「傘ですか?」 先輩の言葉の意味が一瞬分からずに、少しぽかんとして尋ねてみると先輩が笑った。 「天気予報見てなかったの?今日雨振るって予報出てたんだよ。」 ああ、朝のニュースは流していたものの、気が気じゃなくて見てもいなかった。確かに今日は少し肌寒い。ふと窓の外へ目をやると、どんよりとした薄暗い空からポツポツと落ちてきた雫で濡れていた。私はついていない、と言う調子でため息を吐くと、先輩が車の鍵をスーツのポケットから取り出した。 「もう雨降ってるよ。俺も上がるから送っていこうか?」 職場まではいつも歩いて来ている。歩いて十分ほどの距離なので健康のためなんて銘打っているのだ。車は我が家に一台あるが、それは職場が遠いレンが使っている。今日、レンが休みなんだったら借りておけばよかった、と少々後悔したが、ありがたくも目の前の人物が送ってくれると申し出ているのだ。 「すみません、お願いしてもいいですか?」 私がお願いすると、彼は快く引き受けてくれて、皆に挨拶をしてから一緒にオフィスを出た。 駐車場はビルの前の大通りを少し行ってすぐの所にある。エレベーターで一階に降りて、ラウンジにある自動販売機で缶コーヒーとミルクティを買って、先輩に缶コーヒーをお礼にと渡した。 「俺も傘持ってないから濡れちゃうし、ちょっと待ってて。車回してくるから。」 そう丁寧な扱いを受けるのはなんとなくむず痒くて、遠慮をしたものの、先輩は自動ドアを抜けて品のあるスーツを濡らしながら駐車場まで走っていってしまった。少しぼうっとしてから外へ出て彼を待つと、路肩に見慣れた車が一台泊まった。助手席側の窓が開いて、いつもの金髪が見えた。 「ちゃん、傘持ってってなかったでしょう?」 少し大きな声でそうレンが私に呼びかけた。私は先輩に送ってもらう約束を取り付けてしまったが、そんなことをレンに伝えるのも野暮だと思い苦笑い。 「ちょっと待ってて!」 私は雨音で声がかき消されないように、レンと同じように大きな声でそう返事をすると、携帯電話のメモリから先輩の名前を引っ張り出して電話をした。先輩はよかった、と返事をしてくれて、また明日と言うと電話を切った。私は携帯電話をバッグに仕舞って、少し駆け足で車に乗り込んだ。 「冷たい・・・。」 助手席のドアをパタンと閉めてから私は濡れた髪の毛に指を通して軽く水気を払った。 「いきなり雨降り出したもんね。吃驚した。」 レンは静かにアクセルを踏んで車を走らせた。 「わざわざ迎えに来てくれたの?」 私がそう尋ねると、レンは目を少し丸くして私を見ると笑った。 「図書館のついでだよ。」 ワイパーが一定のリズムでフロントガラスの雨粒を横へ横へと流していくのを、なんとなくぼんやりと見つめていた。 「図書館行ったの?」 図書館は私の会社の、割と近くにある。それでも休日の閉館は夕方五時と少し早いし、図書館からそのままの足で会社まで来るとすると、時間を持て余してしまうだろう。 「うん、行ったよ。なんで?朝言わなかったっけ。」 ちらりとこちらを見てレンが尋ねてくる。別に不思議なことではない。朝に行くと聞かされていたし、時間だってカフェなりなんなりで潰せる。 「ううん。何読んだのかなって。」 「んー、いろいろ。昔の事件の文献とか読んでたけど、面白かったよ。お昼からずっと読みふけっちゃった。」 レンは微笑んでそう答えた。図書館が閉館してからどうやって時間を潰していたのか、なんとなく聞けなかった。野暮なことだと思ったのだ。 「春なのに今日は寒いね。早く帰りたい。」 春仕様に変えてしまったコートをしっかり羽織って私は呟いた。レンは「そうだね。」と呟いて少しだけ車の暖房を強めてくれた。 家に着いたのは少し予定よりも早く、六時半になろうとしていた頃だった。 「ただいま。」 レンと私が住む家なので、当然だが誰もいないけれど、誰ともなしに私たちはそう言って靴を脱ぐ。ほんの少し部屋の中は暖かい。レンが昼から図書館へ行って部屋を空けていたにしては不自然なほどだ。 「晩御飯どうする?何か適当に食べに行く?」 レンはソファにぺたりと座り、リモコンを手に取ると暖房を入れた。 「どうしようか。別に何か作ってもいいよ。」 私はコートを脱いでクローゼットに仕舞ってから、レンの近くに行ってそう答える。テーブルの上にはレンのいつも使っているマグカップが置いてあった。中途半端な量だけ残ったコーヒーが湯気を立てている。私はそのマグカップをもってキッチンの流し台へ運んだ。まだ暖かい。淹れたばかりなのだろうかと一瞬疑ったが、それならば私がマグカップを持っていこうとする時点でレンが止めるだろう。そもそも、帰ってきてからのこの短時間でレンがコーヒーを淹れるような時間は無かったはずだ。 「ねえ、レン。」 キッチンからソファに座るレンの背中に目を向けながらそう呼びかけると、レンはこちらを見ないで気の抜けた返事をする。 「家からわざわざ迎えに来てくれたの?」 私が尋ねると、レンは後頭部に手を当てて、少し掻いた。 「図書館のついでだよ。」 さっきもそう言ったけれど、ならばこの部屋の暖かさと、暖かいコーヒーは何なのだろう。私はとりあえずマグカップを流し台においてからレンの隣に座って、レンを見つめた。 「何?」 レンは少し目を細めて私をいぶかしげに見ている。それが本当に嫌でそういう顔をしているのか、そうじゃないのかは流石の私でも分かる。私は嬉しくなってしまって口元を緩めてしまう。 「レン、好き。」 私はレンの腰に抱きついて笑った。レンが少し恥ずかしそうに口元を動かしたのを、レンの肩に顔を埋めながらも感じた。 「わかってる。風邪ひいちゃうからお風呂入っちゃいなよ。」 レンは細い指先で私の髪の毛を軽く梳かしてそう微笑んだ。私は大きく頷いて寝室に部屋着を取りに入った。寝室もまだ少し暖かい。ベッドがレンが寝ていた時のまま、やんわりと線を描いている。箪笥を開けてふとベッドの横のライトスタンドに目を向けると、花が一輪、置かれていた。 「薔薇だ・・・。」 私はそれを手に取って灯りをつけて照らす。まだ開ききっていない苔薔薇のつぼみだ。花言葉を思い出す。 ― 愛の告白 私は勢いよく寝室の扉を開けて、変わらずソファに腰かけているレンを見る。 「レン!」 大きな声でそう呼ぶと、レンはまたこちらを見ないで返事をする。気の抜けた返事。暖かい声だ。 「大好き!」 私がそう伝えるとレンは吐息を漏らすように笑って、こちらを見た。 「わかってる。」 百万回の愛してると同じくらい ホットケーキと 雨の日のレンが好きだよ ―あとがき― 「100万回のI LOVE YOUと1本の薔薇」というタイトルで何か書きたくて仕方がなかったので、勢いで書いてみました。 ヒロインが日常生活で、ふとした瞬間に不安になったり、それでもいつも当然のように転がっている幸せを改めて幸せだと実感する。 そんな話を書いたつもりです。私は桜の次に薔薇が好きです。でも一番は観葉植物です。 ツンデレンにしたくないけれど、少し冷たい子を書きたかったのですが、難しくて断念しました。 レンには花を上げたり、気障なことをしてほしいです。 100408 |