酒が入った若者の声、サラリーマンの声、すべてが大きくて耳が痛い。 そんな中で、受話器越しに聞いた君の声だけはクリアに、僕の中へ溶け込んだ。 ― 彼氏と別れちゃった。今すぐ会いに来てくれないともう鏡音くんなんて知らない。 「え、は?な、なに?」 僕が受話器に向かってそう声を掛けたはいいものの、同時に電話は切られてしまった。彼女に僕の言葉が届いたかも分からない。 「・・・ごめん、行ってくる。」 「お疲れさん。」 久し振りに高校時代の友人と集まったのだが、ちゃんが来いというのなら断れない。ちゃんの存在を知っている彼等は僕を少し哀れむような、それでも期待しているような目で見送ってくれる。ああ、まだパスタも一口しか食べていなかったというのに、酷い話だ。それでも僕は会いにいくよ。だって 「ちゃん、好き!」 「別れたばっかりだからって靡かないんだからね。」 ちゃんの部屋の戸を開け放って叫んだ僕の第一声に、痛烈な言葉を切り返してくるちゃん。僕は彼女のことが大好きだ。自分で呼び出しておいて、こちらをちらりとも見ないで言い放つその鋭さが可愛い。 「そういう釣れない所も好きだけどね。」 ベッドに腰掛けてファッション誌に目を向けているちゃんの隣に倣って座ると、ちゃんは漸く顔をあげてこちらを見てくれる。切れ長の鋭い瞳にふっくらとした下唇がエキゾチックでたまらなくぞくぞくする。 「呆れた。そんなことばっかいつも言ってるね。」 さも僕が節操のない奴だというような口調で唇の端を吊り上げて笑う。 「ちゃんを見てると伝えたくなっちゃうんだよ。」 それは本当だ。ちゃんに会うと、心が震えて叫ばずにはいられない。 「そういう真っ直ぐな所が嫌なのに。」 濃い睫毛を少し揺らして伏し目がちに僕を見る。そう言われてしまっては仕方がないので、僕は笑った。するとちゃんは少し黙りこくって体を丸めると膝を抱えて小さくなる。 「鏡音くんが居ると調子狂う。」 少しふてくされた様子でそう呟いた。狂いたいだけ狂えばいいのだ。その内なにかの拍子に僕を好きになればいい。そんなことを考えながら僕は思わず口元を緩めてしまった。 「ねえ、私ってどんな女なの?」 そんな僕にまるで睨み付けるかのように真っ直ぐとした視線を投げ掛けてくる。 「ん?凄く色っぽい。知的。でも可愛い。」 すらすらと答える僕を呆れた、という調子で見て溜息混じりに「真面目に聞いてるの」と怒るちゃん。僕は至極真面目に答えたのだが、伝わらないようだ。 「本気で言ってるよ。僕はちゃんにべた惚れでしょう?それが何よりの証拠じゃん。」 「暑い。」 そう答えてもちゃんは腑に落ちないようだ。それでもそっぽを向いてそんなことを言って手の平でぱたぱたと顔を扇いでいるのは、照れ臭さで顔が真っ赤になっているからだろう。そういうシャイで可愛らしい一面を僕は知っている。怒られるので指摘こそしないけれど、僕の一番好きな所はそんな幼さなのだ。 「鏡音くんだけだよ、そんなこと言ってくれるの。」 元気のない声でボソッと呟いた。 「別に私、そんな鏡音くんに好きになってもらえるほど、良い子じゃないんだよ。」 少し寂しそうな目をして、どこでもなくただ壁を見詰めている。なんだか消えてしまいそうなはかなさで、僕はちゃんの細い体を抱きしめた。抵抗はしない、ちゃんは僕を好きではないけれど、突き放したりはしないのだ。 「なんか言われたの?」 あいつに、と続けるとちゃんは小さな声で否定する。 「何も。そもそも私が別れようって言ったの。」 「え?」 「一緒にいるのが苦しくなっちゃったんだもん。」 意外な言葉に僕は目をぱちくりさせる。彼氏に振られて寂しいから僕を呼んだのだと思っていた。 「彼氏は鏡音くんみたいに好きだって言ってくれないの。私にはそれは物足りなくって辛かったんだ。」 僕の名前を出されるとは思ってもいなかったので、少し後ろめたい気持ちになる。僕が悪いような気さえしてしまう。思わず顔を歪めてしまった。すると僕の胸の中で小さくうずくまっていたちゃんがふと顔を上げた。 「・・・なんで鏡音くんがそんな悲しそうな顔をするの?」 じっと僕を見詰めてちゃんは困惑気味寝に尋ねてくる。無意識にそんな表情を浮かべていたらしい。罪悪感という本当の理由を言うわけにもいかない。 「感情って連鎖するんだよ。悲しいってちゃんの気持ちが伝わって僕も悲しくなっちゃったんだ。」 取り繕った言葉を並べると、ちゃんは少し悲しそうに笑う。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、ごめんねと僕は心の中で謝った。 「別に悲しくなんかないよ。私の中のもやもやがすっきり晴れた感じがするもん。これでよかったって思った。」 そう言うものの、なおのこと僕は分からなくなった。何故僕を呼び出したりしだのかももちろんだが、何が彼女の中の靄だったのかも。時間を埋め合わせたいだけだったのなら、それでも十分僕には価値ある理由だ。 「鏡音くんは釣った魚に餌をあげるタイプだね。」 そんな例え話をいきなり持ち出すちゃんに僕は少し考えてから答える。 「そうだね。僕、好きなものにはとことん愛情掛けちゃうから。」 「いいね、それ。私、意外かもしれないけど、結構甘えっ子なんだ。好きって沢山言われたいし、言いたいの。でも彼氏に言ったら鼻で笑われちゃった。」 こんなに素敵な女性を鼻で笑ってあしらうような、そんな男の顔が見てみたかった。でもちゃんが好きだった男の顔なんて見たくないというのもあって、僕は苦笑い。 「僕だったら沢山言ってあげられるのに。」 「うん、ありがとう。」 軽い告白をさらりと流されて、僕はその慣れたやり取りを笑って凌ぐことができた。 「鏡音くん、私が我が儘言って呼び出したりなんかしたから怒ってるかなあって思ったの。」 少しの間、特に何を話すでもなく、僕もただちゃんの体を胸に抱きながらゆらりゆらり揺れていたら、ふと綺麗な声でちゃんは言った。一瞬意味が分からなくて言葉を紡げずにいると、ちゃんはまた顔を上げてこちらを見詰める。 「怒ってない?」 じっと僕を見詰めてもう一度尋ねてくる。例えば世の中に愛する人の些細な我が儘を怒る人がいるんだとしたら、僕はその人間とは一生をかけても分かち合えないだろう。 「ちゃんにどんな形でも必要とされたら僕は幸せだよ。僕、ちゃんが好きだもん。そんなことで怒る人いるの?」 僕は信じられない、といった顔をして答えるとちゃんは微笑んだ。たまにそういう優しい笑顔を見せるところがたまらなく好きだ。 「鏡音くんって不思議だね。話してるとなんだか落ち着くの。私が欲しい言葉を全部くれるんだもん。見透かされてるのかと思っちゃう。」 照れ笑いをしてそう語ってくれる。ちゃんだってそうやって僕が喜ぶ言葉を知っている。たまに丸裸にされてるんではないかというくらい、恥ずかしいほど僕の聞きたい言葉を、綺麗な声で紡いでくれる。 「言いたいことを言ってるだけだよ。ちゃんが好きだから、正直に話すだけ。」 「それが私に合ってるってことなのかな。」 その通りだ、だから僕の胸に飛び込めばいい。そう言いたいけれどちゃんがたったそれだけのことで動くような子ではないことを僕は痛いほど分かっている。 「私、自分でもよく分からないんだ。彼氏と別れてすっきりしたのに、何か物足りなくなったの。物足りないっていうより、なんか寂しかった。どうしても鏡音くんに会いたくなって仕方なくなっちゃったんだ。」 ずるい女の子だ。そんなことを好きな子に言われてしまえば、僕は有頂天も良いところ。思わず抱きしめる腕に力をこめてしまいそうだ。簡単に折れてしまいそうな華奢な体を、大切に扱わなければ、と僕は必死にその衝動を抑え込んだ。 「うん、ありがとう。ちゃんに必要とされただけで、僕は凄く幸せだよ。何か僕に出来ることがあれば何でも言ってよ。僕、ちゃんのためなら何でも出来そうな気がするんだよね。」 少し幼い発言にも思えたが、僕は本当にちゃんのためならば何でも出来る気がするのだ。僕の力の全てはちゃんが握っている。 「・・・鏡音くんって気障だね。」 「ええ?本当なのに。」 正直なちゃんの感想に、僕は恥をかかされたような気分で少しめげてしまいそうだった。だが、そんなちゃんが僕の腕の中で少しはにかんだように笑ったのを見たら、そんなことはどうでもよくなってしまった。この笑顔を生み出すきっかけを与えられただけで僕には充分だ。 「世界中の男がみんな、鏡音くんだったら良いのにね。」 ちゃんはそういうと僕の体に少し体重を掛けて余計に密着してきた。すりすりと胸に頭を預けて撫で付ける。若さとはたまにうざったい。たったこれだけのことに僕は勃起しそうだった。僕は必死に理性を保たせるように天井を見上げて、ちゃんの体を意識しないようにした。 「僕だって、世界中の女の子がみんなちゃんなら本当に困らないんだけどねえ。」 ちょっとふざけてそう言うと、ちゃんは唸って少々考えだした。そしてしばらくしてから首を横にゆっくり振った。柔らかい香りのちゃんの髪の毛が顎の下をするすると触れて興奮する。 「女の子がみんな我が儘になっちゃって大変だよ。」 時間を掛けて考えた答えがそんなものだったので、なんだか単純で可愛く思えた。知的な雰囲気だというのに、たまに幼稚なことを言ったりするちゃんのギャップに僕はもう骨抜きだ。 「ちゃんの我が儘なら僕なんでも聞いちゃうもん。」 茶目っ気たっぷりにそう答えて見せると、ちゃんは笑った。また冗談だと思われてるに違いない。 「鏡音くんは本当に私のことが好きなんだね。」 「まあその通りだけど。随分余裕だねえ。」 ちゃんが珍しいことを言うので僕は思わずそう答えてしまった。ちゃんは人の気持ちを逆手に取るような発言をしないものだから、思わず気構えてしまったのだ。 「余裕?そんなものないよ。鏡音くんが優しいから甘えちゃってるけど、本当はいつか嫌われて離れていっちゃうんじゃないかって不安だもん。」 僕の腕の力が少し緩んでいたので、ちゃんは僕に預けていた体を少し起こして僕の顔を至近距離で見つめてそう話す。真っ直ぐな瞳からはそんな不安なんて見えない。たとえばこうしてちゃんが不安だとか、そう言ってくれないとその弱さには気付けないだろう。それを踏まえて覗き込めば、黒い瞳の奥がゆらゆら揺れているようにも思える。きっとちゃんの別れた男もちゃんのことを勘違いしていたのだろう。強い女、だと。 「僕は離れていかないよ。ちゃんが好きだから。」 いつになく真剣みをはらんだ声でそう話す僕に、ちゃんは居心地が悪くなったのか視線を逸らして俯いた。でも僕は止められそうになかった。 「ねえ、世界中の男が僕みたいになったりなんて、そんな大袈裟なこと、誰にも出来ないんだよ。」 僕がそう言うとちゃんは一層下を向いて、肩に力をこめているのが分かる。泣き出しそうなのかもしれないと思って、僕はまたちゃんの背中に腕を回して胸に引き寄せた。 「だって僕は一度の沢山の人は愛せないよ。でも、ちゃんの見てる限られた世界の中くらいなら僕が埋め尽くせるよ。それくらい好きだから。ちゃんに優しく出来るし、沢山欲しい言葉をあげたいよ。ちゃんが望むなら、何でも満たしてあげるよ。」 ちゃんの肩が微かに震えている。きっと悲しいわけではない。なんとなく伝わってくるぼんやりとした不安を僕は全身で感じながら、ただ背中を撫でてあげることしか出来なかった。 「鏡音くんの、馬鹿。」 僕の心臓に直接話しかけるように、ちゃんはそう言うと僕の着ている服を、皺が出来てしまうほど力強く掴んだ。 「うん、馬鹿。でも馬鹿だから楽しいよ。恐いとかって全然わかんないんだもん。ちゃんのことだけ考えてればそれで幸せ。」 本当はちょっとだけ不安だったり、恐くなったりすることはあるが、そんな些細なことを口に出すのも情けない話だ。僕は事実、ちゃんとこうして一緒の空間で、一緒の時間を送っているだけで頭がいっぱいになっちゃうくらい、幸せ者なのだから。 「そういう真っ直ぐな所が嫌いなの。」 今日二度目のその台詞を僕に浴びせて、ちゃんは少し体を伸ばした。その瞬間、僕の視界に影が出来る。 キス を した 僕が思わずぽかんとしていると、潤んだ瞳で僕を睨むちゃんが居る。 「なんでそんな怒ったような顔するの?」 戸惑いのあまり、まずそのことから尋ねてしまう。キスは事故かもしれないが、少なくとも僕から仕掛けた事故ではないはずだ。それなのに睨み付けてくるちゃんが不可解に思えた。 「怒ってない。照れ隠しだよ。馬鹿。」 正直にそう話すちゃんに、僕は思わず笑ってしまった。すると僕が笑ったことに余計羞恥心が駆り立てられたのか、ちゃんは顔を真っ赤にする。 「気持ちって伝染するんでしょう?鏡音くんがきっと私とキスしたいって思ったから、私にうつっちゃったんだよ。だからキスしちゃったの。」 なんて責任転嫁だろう。僕がキスをしたいと思うタイミングはもう少し暖かな空気の中でだろうし、ましてやちゃんのあんなに悲しそうな表情を見ていればキスをしたいと思っていても、しゅんっと一気に萎んでしまうだろう。それでも、僕には嬉しい変化なのだ。僕はこらえきれず、頭がおかしくなってしまったのかと思うくらい、笑いがこみ上げてきて声を上げて笑ってしまう。 「さ、最低!鏡音くん、私のこと馬鹿にしてるんでしょう?」 ぷるぷると肩を震わせて怒鳴り声をあげると、僕の肩を両手でぐっと押しよけようとする。僕は素直にそれに従ってベッドに倒れこんだ。肩の力が抜けて体を起こすに起こせない。 「ちゃーん。」 「なによ。」 僕は両手を目一杯広げた。ちゃんはそう返事はしてくれたものの、僕のこの腕に飛び込んできてくれたりはしなかった。 「僕、今すぐにもう一度キスしたいなあって、思ってるよ。伝わってる?」 可愛すぎて仕方ないのでそうからかうと、ちゃんは僕をにらみつけた。 「知らない。伝わりません。馬鹿。」 意地っ張りにそう答えるので、僕はちゃんの手首を掴んで、少し強引に手前に引いてやった。するとちゃんが驚いたように声を少し漏らして体勢を崩した。 「いいよ。自分でするから。」 僕はもう一度キスをして、ちゃんの髪を撫でた。ちゃんは目を丸くさせていたけれど、観念したように目を瞑ってため息を吐いた。僕はそのまま腕を背中に回してぎゅっとちゃんを抱きしめた。 「僕がちゃんを好きだって気持ちも、伝染すればいいのに。」 今はこれだけでも充分幸せなんだけれど、僕は調子に乗ってそう呟いた。するとちゃんは僕の顔の横にうずめていた顔をこちらに向けて、耳元で口を開いた。凄くくすぐったい感覚。 「馬鹿。本当は鏡音くんが好きになっちゃったから彼氏と別れたって気付かないなんて。」 大好きなちゃんの声が僕の耳元でそう紡がれたので僕がびっくりして目を丸くさせて、何か言葉を返そうとすると、ちゃんに耳たぶをかまれた。 「恥ずかしいから何も言わないでよ。」 顔をまたベッドにうずめてしまったので分からなかったけれど、ちゃんの体温がものすごく暖かくて、僕は言われたとおりに大人しく、ぼんやりと天井を見つめていた。しかしふと気付いて口を開いた。 「あ、ほら、やっぱり僕のちゃんが好きだって気持ちが伝染したんだよ!」 「もう、うるさい。」 僕の言葉を否定するでもなく、照れ隠しのように大声を出すちゃんを僕は、嬉しくて抱きしめた。 このまま僕の全てが伝わりますように。 ちゃんの全てが伝わってきますように。 ―あとがき― 短編です。本当はこういう結末ではなくて、「ヒロインが恋愛とは違う感情でレンをかけがえなく思っているので、 レンと一緒にいるのはつらいけれど、気持ちが伝染してキスをしてしまって、レンを苦しめてしまうんじゃないかと恐くなる」 という話にするつもりでした。 好きとか大切とか、同じものではないけれど、歩み寄りたいというような悶々とした感じが書けなくて諦めました。 かなり中身のない内容になってしまいました。申し訳ありません。 100329 |