レン君の成績はそれなりに良い方で、自慢する程では無くとも、この夏休み補習の枠組みに入れられる程では無いことは確かだ。仲が良い訳ではないので噂でしか聞いたことはないが、私はそう認識していた。 補習の時間は午後一時半。まだその時間まで一時間ほどあって、教室は窓際の一番後ろを陣取った私だけだった。折角の夏休みに早く学校へ来る者なんていうのは、そうそう居ないだろう。大体集まって十五分前からだ。それを思うと、部活動をしているでもない彼が、何故こんなに早く学校へ着たのか不思議でならなかった。 暫く窓から外を眺めていた。何を見るでも無く、ただそんな事をぼうっと考えていると教室の後ろの戸が開いて、レン君が入ってくる。レン君は一度私を視界に入れたが、すぐに辺りを見渡す。その彼の瞳の動きで、隣に座ってくれないかな、なんていう期待は一瞬で崩れ去った。確かに私の座っている席以外の場所は自由に選べる状況で、あまり喋ったこともないクラスメイトの隣にわざわざ座ることもないだろう。少し残念な思いで、彼がどこに座るのかを見届けようと思った。すると彼はもう一度私と目を合わせると、つかつかと此方に向かって歩いてくる。私が驚いてきょとんとしていると隣の席の椅子を引いて腰掛けた。 「おはよう、さん。」 少し大人びた微笑を浮かべるレン君。その微笑の中に少しだけ残る幼さが私は好きだ。 「おはよう。」 学校生活で挨拶くらいは交わしたことがある私達だが、何故か私は途端に夏休みまでレン君に会えて、こうして挨拶が出来ることが嬉しくてたまらなくなった。 「さん早いんだね。僕、一番乗りだと思ったのに。」 つんとした目つきで一見取っ付きにくそうな顔からは想像出来ないほど、レン君の声は柔らかくて癖がある。その声が初めて私だけに言葉を向けたので少し緊張した。 「なんか珍しく早起きしちゃって。図書館で時間潰せば良いかなと思ったら、予想以上に時間潰せなくて。」 私は極力興奮を悟られないように、淡々とした口調で話して苦笑を浮かべた。するとレン君は私の手元にあったノートと筆記用具を見た。 「本が好きな女の子って、字上手い人多いよね。さんも上手だしさ。」 そう言って私が自分のノートに書いた名前を指先でなぞった。私の方へ乗り出してくるレン君の体が凄く近い。実際はそうでも無いのだろうが、なんだか私がレン君を意識してるだけに体が強張る。 「さんって下の名前、っていうんだ。」 柄にも無く、彼の声でと呼ばれた瞬間、どきっとして顔が熱を持つ。引き続き、必死に平常心を繕って頷くと、レン君は私の顔をのぞき込むように見つめた。 「ちゃんって呼んでいい?」 思わぬ展開に私は嬉しくて頭を二、三度強く振った。 「ていうか、僕の名前知ってる?」 当然だ。どれだけ私がレン君のことを見ているか、彼は知らないのだろう。 「レン君でしょ?知ってるよ。」 即答する私にレン君は嬉しそうに目を細めた。 「良かった。僕、存在感ないから、今もちゃん、“誰この人”って感じで話してるのかと思って。」 いたずらっ子のような笑顔が私をよりときめかせる。 「レン君、存在感強いよ。むしろ私の名前知ってたことに吃驚したもん。」 「そう?ちゃん、可愛いから男ならすぐ覚えるよ。」 可愛いなんて言われ慣れていない言葉に、お世辞と知っていてもどきっとさせられる。なんて返して良いのか分からずに私は話題を変えた。 「レン君ってハーフって噂、本当?」 私はこれを機に知りたかったことを尋ねてみる。するとレン君は一瞬驚いた表情を見せて、すぐに声を出して笑った。 「何それ、誰から聞いたの?」 吐息を漏らすような笑い方が色っぽい。同い年だなんて思えなかった。レン君は髪が綺麗な金髪な上に、「鏡音レン」と、カタカナの名前だ。金髪を教師から咎められているのを見たことはないし、そういう噂が立つのも当然と言えば当然のような気がする。 「女の子が話してたのを聞いたの。名前もレンだし、髪も金髪だし、本当にそうなんだろうなって思うけど、訊いてみたかったんだよね。」 私のその言葉にレン君はまた笑った。 「あぁ、あれ嘘だよ。名前はたまたま親がカタカナにしただけだし、金髪も染めてるだけ。地毛がかなり茶色いから上手く色が入ったんだよね。」 長い睫がレン君の瞳を縁取り、それが影を落としている。そして彼は微笑むが、私は納得いかなかった。 「でも目の色も・・・」 「あ、これはカラコン。色素薄いから馴染んでるでしょ。」 そういってレン君は私の顔にずいっと近寄って下瞼を指先で軽く抑えて見せてくる。確かにどんなに見ても違和感がないのだが、コンタクトの縁が眼球にうっすら見える。 「ほ、本当だ。でも金髪、先生達に何も言われない?」 もう納得はいったのだが、なんだかそこが一人でずるい気がして尋ねると、レン君は顔を離して自分の髪の毛を指先で弄る。 「先生達にはハーフって言ってるんだよ。“諸事情で親は違うんですけど、ハーフなんです。”って話したらさ、それ以上はやっぱり詳しく追求できないでしょ?そしたら案の定、先生達から咎められなくなったんだ。友達にも教えてないから、先生達にもみんなにも内緒ね。」 ふんわりともう一度笑って私に「ね?」と返事を催促した。私は小さく頷いて、こんなことでも二人だけの秘密というのを早速作ってしまったことに心が弾む。緊張が随分と解けて、私は随分饒舌に話せるようになっていた。 「レン君って成績いいよね?なんで補習あるの?」 疑問をそのまま口にすると、レン君は「あぁ、それね。」と問い掛けに納得でもするような物言いをする。 「ちゃんが受けるって聞いたから、会いたくて。」 私の問い掛けはレン君によって真顔で返される。思わず阿呆のような声を出してしまう。するとレン君はまたくすくすと笑って今度は声を出して笑う。 「冗談だよ、嘘に決まってるでしょ?・・・って、それも失礼だよね。」 笑いながらレン君は目を細めて私の肩を軽く二、三度叩く。私は力の抜けた顔をしたが、心中は残念に肩を落とした。 「ちゃん可愛いね、凄い挙動不審だよ。」 特有の甘い声が、また吐息を漏らすように笑う。挙動不審を可愛いと言うのも可笑しな話だ。 「挙動不審じゃないよ、レン君がからかうからいけないんじゃん。」 浮きだつ気持ちを抑制して私はツンとそっぽを向いた。しかしレン君が構ってくれるのが嬉しくてついつい声が弾んでしまう。 「まぁ、あながち違ってもないけどね。」 私に会いに来たということがだろうか。そうだったらどうしよう、と思うと顔が赤らんだ。 「今、“私に会いに来たことが"って思ったでしょ。」 口の端を釣り上げてにやにや笑うレン君に、図星を付かれたのと、その言い方で私の勝手な勘違いだったのだと気付いてしまい、より恥ずかしくなって顔が熱くなった。 「ちゃんって本当面白いね、見てて飽きない。」 もう何を言われても喜んでしまう自分にほとほと呆れた。私はいじけた振りをして唇をむっとさせてから少し前に突き出した。レン君は今、何を思ってるのか、変な顔とでも思っているかもしれないが、それでも良かった。もうこうなったら、笑われ役でも構わない。私は視線をどこに向けるでもなく、そんなことを考えていた。すると、ふと私の髪の毛が揺れる。意識がそちらに向かい、視界には私の髪の毛を指先で弄ぶレン君の姿が入った。私がそれに気付いたことが分かると、レン君はふわりと微笑んだ。 「ちゃんの髪の毛、綺麗だね。サラサラしてる。」 レン君は私の髪を指に巻き付けたり、指と指の間を通したりを繰り返しながら呟くように言う。よく言われる私の唯一の自慢だが、レン君は綺麗な色に加えて、艶やかな髪の持ち主だ。そんな相手に言われても複雑な感情である。 「レン君も髪の毛染めてるのに綺麗じゃん、羨ましい。」 思った通りの言葉を口にするとレン君が納得いかないような声を漏らした。 「僕なんて髪の毛傷んでるし全然だよ。ちゃんってば誉めれば良いとか思ってない?」 冗談っぽい口調ではあったが、私は少しだけ悲しくなる。本気で言っているのに、彼は信じてくれない。 「本当だもん。」 「またまたぁ。」 私が言ってもレン君は笑っている。何だかこれに関しては信じて欲しくて仕方がなかった。 「本当・・・だもん。」 自分でも思ってもいなかった声になってしまった。掠れて切として伝えようとする声だ。それに自分で驚いたのと、私の気持ちがレン君にばればれなのでは無いのかと恥ずかしくなり、俯いてしまった。なんだかあんなに好きなレン君の顔を見ることが躊躇われる。今、彼はどんな表情をしているのか、変な声に笑っているのか、驚いているのか、また信じてくれなくて苦笑を浮かべているのか。いろんな思いが逡巡する最中、レン君の繊細な細い指先が私の手首を捉えて優しく掴んだ。それに驚いたのと、彼の手が軽く私を手前に引いたせいで顔を上げた。 スローモーションで背景が流れるのを、私は初めて感じた。レン君の顔が私の眼前に来て、唇が暖かく包まれた。 「ありがと。」 いたずらな笑みが何にお礼を言っているのか、一瞬分からない程に私は思考が止まってしまった。少ししてから髪を誉めたことに対してなのだと気付く。しかし、そんなことよりもレン君のキスの意味が理解出来なかった。自然と私を軽く浮いていたお尻をまた椅子に戻した。 「何で、キス、するの?」 訊かなければ良い物を、思わず言葉が先に紡がれてしまい、取り戻せないことを悔いた。私の紡いだ途切れ途切れな言葉は、明らかに動揺を露わにしていた。するとレン君は何食わぬ顔で微笑を浮かべる。 「したかったからかな。」 語尾が少し上がり、レン君は自身に問いかけているような感じだった。泣きそうだ。彼に特別な意味もないキスなのだ。私にとっては、今こそ驚きが大きいが後に喜びへ変わる素晴らしい瞬間だったことが、彼にはただ一瞬の意味も為さない行動だったことが悲しかった。 「キスってさ、好きな人にするものじゃないの?」 これ以上探れば苦しくなることを知っていながらも、私は止めることが出来なかった。涙が出そうだった。それを必死に抑える。 「そうだね、そういうものだね。」 始終笑顔の彼に悪意は全く無いようで、段々と一人で感情を荒くしている自分が情けなくなった。 「なら、何で・・・?」 どこまで私は馬鹿なのだろう。なぜ傷付くために言葉を紡ぐのだろう。頭の片隅ではそう思うのに、私の口は自分のものではないように勝手に動く。沈黙が恐い。 「だからじゃん。好きじゃなきゃしないよ。」 レン君は声を荒げる私に呆れたように苦笑して告げる。私は言葉を返そうと口の中でレン君の言葉を繰り返して返事を見つけようとする。悲しみで混乱した頭で、自らレン君の言葉を反芻させる内に思わず「好きじゃなきゃしない」と声に出して復唱していた。レン君はそれに頷いてにっこり笑う。私もそこまで酷い鈍感なわけでもない。そこまでくるとレン君が意図することに気付いて、更に思考が絡まってしまい、口をぱくぱくさせてしまった。 「だ、だってさっき、私に会いに来たわけじゃないって・・・。それって、好きじゃないってことじゃないの・・・?」 「“あながち違ってもない”って言ったよ?」 「でも、勘違いした私を、笑ったじゃん?」 「別に否定した覚えはないけど。実際はちゃんが好きなんだから、そっちの方が本当に勘違いだよ。」 私の頭は麻酔を打ったようにふわふわと混乱していた。 「でも・・・、」 「例えそこで否定してたんだとしても、もう今の理由はちゃんに会いたいからだよ。明日もその先も。」 同い年のはずの彼に宥められている。段々とレン君の伝えようとする事実に頷けてきて、頬がまた熱を帯びた。 「私もレン君のこと・・・、その・・・、えっと、」 好きだよ、という四文字が口に出てこない。急かすようにレン君が「何?」と真顔で尋ねてくる。ここまで言ってるのに伝わらないのかと、もどかしさのあまりに喉でつっかえていた言葉が出てくる。 「好きだよ。」 「うん、知ってる。」 目を細めて楽しそうに彼は笑みを浮かべた。私は言わしておいてのその返事に、かっと赤くなる。 「ちゃん、俺のこといつも見てるし、分かりやすいよね。今日も水道で水飲んでるとこ見てたでしょう?そんなにいつもさ、好きじゃなきゃ見ないでしょ。」 自分の行動が全て筒抜けだったことが、私の羞恥心を駆り立てて、声を荒立てる。 「な、何で知ってるの?」 怒っている訳でもないのに怒気が混じったような声になる。恥ずかしくて消えてしまいたかった。 「だから言ったじゃん。」 「・・・何を?」 一体何を言ったのだろうか。私は先程までの会話の端々に、何かそれに当てはまる言葉を探そうと回想を始めた。すると私がそれを見つけるより先に、レン君が口を開く。 「好きだよって。」 好きじゃなきゃ見ないでしょ ―あとがき― マセレン夢のつもりで書き上げました。 勝手に人間設定にしてしまって、すみません。 しかもマセてるというよりも意地の悪い子になってしまいました。 しかしこういう性格の子は書きやすかったので、 また次も、なんて思ってます。駄目な作者ですみません。 080628 |