ドリーム小説  僕は戦う力を持っているはずだ。
 ただ戦う相手がいないだけだ。


 それは悲しい。










、まだ仕事?」


― うん、ごめんね。


「そっか。今日の夜、そっち行ってもいい?」


― ごめん、今から新店の会議が入っちゃって・・・。


「そっか、分かった。ごめんね。」


― ううん、ごめん。来週の休みは私がそっち行くから。


「ありがとう、ごめんね。」


― うん、ごめん、切るね。


 電話は切られる。静かな自室には冷えて澄んだ空気が充満している。呼吸をひとつすれば鼻がツンと刺さるように痛む。人間とは繊細な生き物だ。


 僕達は何をこんなにも謝り合っているのだろう。










「レン、仕事慣れた?」


 それから僕が愛しい彼女と会ったのは二週間ぶりで、それはのアパートの狭い部屋で淡々とした会話が満ちるだけの時間だ。はわざわざ仕事が早く終わったからと連絡をくれたので、僕は急いで目的のものを買っての家へと走ったのだ。


「まあまあかな。は忙しそうだね。」


 僕が苦笑しつつ答えると、は頷いた。険のある言葉に聞こえただろうか。僕達は同い年だが、僕は大学を出たばかりの社会人一年生で、は高校を卒業して就職した先で五年目の仕事に勤しんでいた。


「新しい店を任されるようになったから準備とか大変でさ。」


 そう微笑みながら語るの指先を彩るジュエリーは僕が与えた物ではない。が働くジュエリーショップで、が自分の給料で購入したものだ。


「どこら辺に新しい店が建つんだっけ?」


 訊いた記憶はあるが、答えは記憶にない。


「この家の隣町だよ。」


 怪訝な表情一つ見せないでは答える。


 それは悲しい。


「近いし良いね。」


「うん、じゃなかったら任されなかったかもしれないもん。偶然にもチャンスが舞い込んだって感じだよね。」


 さぞ嬉しいのだろう。その話を前にした時もそうだったが、改めて表情を喜色で彩った。


 それは悲しい。


「それより暑くない?私、動き回ってたから汗かいちゃって。シャワー浴びてくるね。」


 すっくと立ち上がり、箪笥から下着と部屋着を取り出して浴室へとは消えた。が手に取った下着は確か二ヶ月前に買ったと言っていた物で、しかし一番のお気に入りはラインストーンがあしらわれた黒の下着だった。僕がそれを熟知しているのは、やはり長い年月を掛けてと過ごしたからだろう。もう七年になる。
 お互いを分かりあうことは恐い。


 ベッドに突っ伏せて枕を抱いてみる。の香りが枕の芯から包み込む。
 ベッドの上をくまなく見つめる。の長い黒髪が数本見つかる。
 ゴミ箱を漁る。丸まったティッシュの中は何も無い。
 部屋の中を歩き回る。コンドームの袋の切れ端さえ見つからない。


 それは悲しい。


 僕には戦うものが無いのだ。






 暫くしてカラカラっと音がすると、が浴室から出てくる。僕はの部屋の探索をやめる。


「さっぱりした。」


 間延びしたの声を耳に受けつつ、僕はのしっとりと水分を含んだ毛先に触れた。指先に染み込む水。体中にこの水が伝われば、のことももう少し分かるかもしれない。


「もう七年だね。バイト時代が懐かしいよね。」


 僕はに語りかけると、どうしようもない罪悪感に駆られる。


「私達、バイトに入った日も一緒でシフトも全部一緒だったもんね。」


 楽しそうな声色で返してくれるに頷いた。高校に上がってすぐ始めたアルバイト先に、も同時に入ったのだ。すぐにお互いに惹かれ合い、のめり込んだ。


「辞める日は流石に打ち合わせたけどね。」


 目を細めたのは笑ったからではない。胸が痛んだからだ。


「店長には最後にばれたよね、付き合ってるって。」


 懐かしい記憶はの言葉で、よりモノトーンと化す。


 それは悲しい。


「店長鈍かったもんね。」


「私、あのセクハラおやじを何回殺そうと思ったか分かんないよ。」


 口をきゅっと詰むんで険しい表情をわざと作り上げただが、すぐに笑う。


、気に入られてたよね。よくあんな場所に僕達、三年間も勤めたよね。」


 苦笑しながら言うと、も苦笑を返す。


「あの時はレンがいたから続けられたんだよね、きっと。」


 あの時は?


 あの時も?


 今は?


 今も?


 今でも?


 僕は何と戦えばいいんだろう。






「人間の寛大さを器って例えるよね。」


 もし周りに誰かが居るのなら唐突に聞こえるかもしれない。しかし僕達は分かり合う。分かり合ってしまうのだ。


 それは悲しい。


「私は小さじ一杯分だよ。」


「違うよ。コーヒーカップ一つ分。」


 僕の部屋にあるアンティークの食器は繊細だ。人間にそっくりだ。


「レンはいっつもそう言うけど、そんなに無いもん。私はちっちゃい人間だよ。」


「でも僕なんてそのカップのソーサーだよ。数滴しか入らないよ。」


 アンティークのカップとソーサーとスプーンのセットを、出会ったばかりの頃、僕達はどれが相応しいか話したことがあった。が一番大きくて僕は一番小さい。本当にそうだと思った。だけど、の受け皿になれるならそれでも良いと思っていた。
 はそのアンティークを酷く気に入り、僕の家に来たらそのカップでお茶するのが決まりになっていた。あのアンティークはの大好きな一時に長い間触れ合った。昼と夜の紅茶をそれと共にした。は朝が苦手だったので、朝の紅茶を飲んだことはない。


「ねえ、最後にセックスしたのっていつだっけ?」


 僕が尋ねるのには苦笑しつつ口を開いた。


「二、三ヶ月前かな。分からないけど。」


「キスは?」


 間髪入れずに質問を重ねる。


 手を繋いだのは?


 散歩をしたのは?


 映画をみたのは?


 歌ったのは?


 大好きだった紅茶は?






 それは悲しい。






「分からない。忙しくて時間合わないもんね。」


 分かっている。こんなことは語り合うべきではない。は黙り込む僕を見かねて口をゆっくりと開く。


「レン、いつ気付いたの?」


「一年前。」


 何を、などと野暮なことは聞かないでほしい。


「そんなに早く・・・。私本人さえ気付かなかったよ。」


 さっきから苦笑しか見せないにもどかしさを感じる。僕は何もしてやれない。


は?」


 僕の問いかけにたっぷりと間を置いて、“二、三ヶ月前”と答えた。あまりに辛いので僕はを抱き締める。は抵抗もせずに、抱き返しもせずに、淡々とした時が営むのは虚無感だけだった。


「僕達って、幸せだった?」


 変な質問かもしれないが訊かざるを得なかった。


「当たり前だよ。私は幸せだった。」


 柔らかく微笑んでが答える。


 それは悲しい。


、大好きだったよ。」


「・・・私も。」






 お互いを分かり合いたいという人間は、分かり合ったことがないから望むのだ。事実、それを望んだ僕は、分かり合うということで大切な人を失う羽目になった。
 仕事に慣れだしたは僕への興味が薄れたし、僕もそんなを認めるのが悔しくて、いつの間にか卑しい気持ちになってしまった。愛しているのに何故こんな気持ちにならなければならないのか。しかし、僕達は確実に各々のタイミングで、終焉に近付いていることを悟ってしまった。は僕への愛情が薄れたことを、僕はの愛情が薄れたことを、それぞれで気付いてしまったのだ。






に上げたいものがあるんだけど、貰ってくれる?」


 僕は買ってきた物を袋ごと差し出した。はそれを柔らかな手つきで受け取って中身を見る。梱包材を剥がすと裸になったティーセットが出てくる。僕の部屋にあるカップらを気に入っていたに、それに似たアンティークのティーセットを上げたかったのだ。


「ありがとう。」


 消えてしまいそうな声でが言う。


「それは良かったら朝に使ってくれない?」


 僕が頼むと、は不思議そうな表情を浮かべる。しかしその中にはこっそりと涙を隠していた。


「何故?」


 朝の紅茶もコーヒーも飲まないには使い道が無いだろう。


「もし朝の一杯を飲む余裕が出来たらさ・・・、その時はまた僕のことを考えてみてよ。昔みたいにさ。」


 カップの縁を白い指先がなぞる。僕はただただそれを見つめた。は暫し言葉を返せなかったようだが、静かに頷いた。このままではを心ごと、体ごと奪いたくなるので、立ち上がる。玄関までが見送ってくれるのを受け入れて、背中を向けて歩く。時が残酷なまでに早足に過ぎるので僕は振り向くのを躊躇った。ブーツを履いて、へと向いた。


「僕は器が小さい男だったけど、のことを好きだったのは本当だよ。大好きだった。」


 悲しい調に乗せた。は悲痛の表情で笑う。


 それは美しい。










「馬鹿だね、レンは。ソーサーは沢山の水を入れているカップを支えるんだよ。カップなんかよりよっぽど大きかったよ。」






 涙が止まらなかった。


 アンティークのように繊細な人間の、甘い紅茶の涙。




















―あとがき―
暗くて意味の分からない感じの表現で書きたかったんです。
意味が分からない感じなのに分かるという小説を。
しかし本当に分からない話になってしまいました。
雑貨屋でアンティークのティーセットを見つけた瞬間に閃いた話です。
駄文を失礼しました。

080906
















































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