ドリーム小説 「また鏡音くんか・・・。」


 解答用紙に向かって私は思わず呟いた。早朝で私一人しかいないため、ここはとても静かで声が響く。彼の解答用紙は“鏡音レン”という名前と、あまりにも答えに程遠い解答が連ねられている。
 彼、鏡音レンは私の教え子で、表向きは勉強も出来て、年不相応に大人びて憂えた容姿。女生徒の注目を集めている。私の受け持つ数学もそうだ、彼はノートも綺麗にまとめていて、小テストもいつもクラスで一番の点数を取る。そして誰より早く終えて頬杖をついて外を見ている。その表情はどこか違う世界を見据えていた。
 私はまた深く溜息を吐いて、力なく点数を端の方へ書いた。


「14点。」


 その数字を読み上げざるを得ない程に、私はショックなのだ。彼は私が受け持つ前は数学のテストもトップを飾っていたというし、今も他の教科では文句なしの点数だと聞く。私の教え方が下手なのか、テストの作り方が駄目なのか、はたまたその双方か。


「また鏡音ですか。」


 後ろからにょきっと顔を出して、私と同じく数学を受け持っている教師が呟く。


先生はなめられてるんですよ。ちゃんとか呼ばれてるみたいですし、もっと厳しくしていいのではないですか?」


 胸へ言葉がダイレクトに刺さる。


「そうなんですかね?」


「そうに決まってますよ。」


 私は教免を取って二年目で、やっと一人で授業を任せられるようになった。一応のところ“一人前”と認めてもらえたはずなのだ。確かに他の教師に比べれば若くて未熟だが、なめられては困る。だが若さを持て余す彼らにすればそれだけで自身のエネルギーを燃やす燃料なのかもしれない。名前で呼ばれるのは親しんでいる証拠だと気にしていなかったが、そう言われてしまうとそれがなめられている証拠にも思えてくる。明後日から夏休みも含めた七月いっぱいに渡って行う補習は、中間テストと期末テストの点数を足して50点に満たない者を対象とした。正直な所、甘過ぎである。しかしこの学年の出来の悪さは驚く物だ。私も夏休みなのだから生徒達にもゆっくりしてほしいのと、私も補習はしたくないということで基準が決まった。しかし今回の補習に当たったのは鏡音くん一人だった。厳密に言えばまだ他にもいるが、それは私以外の教師が受け持っているクラスなので補習は別々に行われる。


「今日、鏡音くんにビシッと言ってみます。」


 私は意気込んでそう誓うと、後ろに立っていた数学教師は頷いてから自分の席へと着いた。






 授業があるクラスにテストを返却しに行き、補習に当たる生徒にはその詳細が書かれた別紙を一緒に渡した。とどのつまり鏡音くんに、だ。テストを取りに私の前までやってきた彼はニコニコしている。何がそんなに楽しいのか。今日の放課後は私に渇を入れられるとも知らずに笑っている彼を見ていると腹立たしくなる。


「鏡音くん、今日の放課後、多目的室に来なさい。」


 教師としての威厳を見せつけるように私は厳しい口調でそう言い付ける。すると鏡音くんはふんわりと笑う。


「はーい。」


 間延びした声でそう答えて席へと戻る。もっと嫌そうな顔の一つでも出来れば可愛いものを、彼は他人事のようにへらへらとして、友人らに「ちゃんの補習に当たっちゃった。」などと言っている。私がこんなにも一生懸命に鏡音くんのためを思ってする説教の筋書きを考えているのにも関わらず、彼を見ていると、きっとその時が来てもやる気なさげに笑っているのだろうと思えてくる。私は本日三度目の溜息を吐いて放課後を待つ。






 放課後、私が職員室から多目的室に行くと、意外にも鏡音くんはもう席で頬杖を付いて待っていた。


「鏡音くん、早いね。」


 私はそう言って、向かい合って話せるように机の前と前をくっ付けようと机を引き摺る。鏡音くんはそれを察したのか、すぐに手伝ってくれて、椅子に腰掛けた。


「ありがとう。」


 次いで私も椅子に座る。すると鏡音くんは横に放ってあった鞄の中からパックジュースを取り出した。


「ここの教室、暑いでしょう?これあげる。」


 空調設備が整っていないこの学校では職員室と校長室、その他の専門教室くらいにしか空調機が付いておらず、夏本番を迎えようとしているこの教室は異様にむしっとしている。しかし目の前に座っている鏡音くんは涼しげな表情を浮かべて、私にパックジュースを差し出す。


「あ、ありがとう。ここ暑いもんね。」


「本当暑い、汗出るよ。クーラー付けてってちゃんから校長に言っておいて。」


 汗一つ浮かべていない肌を太陽の陽に当てながら、鏡音くんは口の端に優しく笑みを湛えて言葉を紡ぐ。それを見るとなんだか和んでしまって私も“わかった”なんて笑みを浮かべてしまう。本来の目的を忘れかけるが、私は気を取り直して厳しい表情を作る。


「鏡音くん、何で今日呼ばれたか分かる?」


 ストローを差して、形の良い唇でジュースを吸って飲んでいる鏡音くんに私が尋ねる。


「分かんないよ。補修は明後日からでしょう?何で僕は呼ばれたの?」


 間抜けな表情で私を見つめる。馬鹿にされているような気がするほどに余裕綽々なので、私はむっとした。


「鏡音くんだけなの、私の補習に当たったのは。どういうつもり?」


 声を強めに、しっかりと威厳を見せるように私が問うと、鏡音は笑う。


「どういうつもりって、その意味が分かんないよ。テストが出来なかったんだから、それだけだよ。」


 彼はそんな言い訳が通用するとでも思っているのだろうか、何食わぬ顔でそう淡々と話す。


「鏡音くん、それが本当にそうなら問題ないけど、どうしても納得いかないの。」


「何で?現に数字で表れてるじゃん。」


 シラを切る鏡音くんに私は鞄から資料を取り出した。鏡音くんもそれを興味深そうに覗く。


「鏡音くん、去年は違う先生だったけど数学は得意分野のはずでしょう?それに今年に入ってからの小テストも90点以下は無し、ノートも凄く綺麗にまとめてる。他の教科も模範的みたいだし。それなのに何で私のテストだけ出来ないの?」


 私の詰問に鏡音くんは、面倒くさいのか唇を突き出して不満そうな声を漏らす。


「何が言いたいの?先生。」


 そんな呼び方を嫌みったらしくして、口角を釣り上げる。


「この際はっきり言うけど、私のことなめてる?」


 そう切り出すと鏡音くんはきょとんとする。その表情は図星というよりも意外
な答えを聞いたとでもいうようだった。


「なめてなんかいないよ。」


 また大人びた表情で私を見据えて答える。子供のようにころころと表情を変えるが、その一つ一つが大人びていて、たまに大の大人の私でさえドキッとさせられる。しかしここでは引けない。私は口を開く。


「私の教え方が悪い?」


 生徒に聞くのはおかしいかもしれない。教え方なんていう基準を彼らが知るわけもない。しかし彼がこれほどまでに悪い点数を取るのは何か理由があるとしか思えない。鏡音くんは小さく唸ってから口を開く。


「強いて言えば、解き方を教える時が解りにくいかな。もう少し“どうしてここでこの方程式を使うのか”とか説明してもらえると解りやすいよ。でも僕は頭が良いから分かるし、ちゃんの教え方が悪いわけじゃないよ。」


 淡々とした口調で語られるので、思わず私は肩を竦めた。しかし、彼が言うように教え方が悪いわけでは無いようだ。もし悪かったとしても彼は小テストでは点数を取れるので理解はしているはずだった。


「じゃあ何で点数が取れないの?それを聞いたら余計に分からない。」


 私が溜息まじりに問いかけると、鏡音くんも困った表情を浮かべる。


「僕からしたらちゃんが“分からない”のが分からないよ。」


 甘い声色は困惑を秘めているが、微かに香る余裕があった。


「何が言いたいの?」


 思わず眉間に皺を寄せると、鏡音くんは椅子から立ち上がり、手を机に付いてずいっと身を乗り出し、私に顔を近付けた。私は驚いて身を引くと、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「何で休みを潰してでも補習に受けたいか分からないの?」


 六歳も年下の子供にたじたじになってしまう。そもそも“補習を受けたい”という彼の気持ちも今知った所なのにそんなことを尋ねられても分からない。私は鏡音くんから溢れる若いエネルギーの矛先を向けられている気がして、変に緊張してしまって首を横へ振ることしか出来なかった。すると鏡音くんはすっと私の頬を手で撫ぜる。この暑いのにも関わらずひんやりとした体温が私を固まらせる。そしてより私に顔を近付けると顔を軽く傾けて、目を細めて嫌味な程に落ち着いた妖艶な笑みを口の端に作り上げる。


「先生なのに生徒のこと、一つも分かってないんだね。」


 言葉が返せない。私が勉強を教えている、生徒だと思って子供だと決め付けていた。しかし目の前にいる彼は私よりも熟れた大人のようだ。瞳の奥にある濃紺の一粒が私を捉えて離さない。


「何が、言いたいの・・・?」


 また同じ言葉が出てしまう。この現状に陥っているのも理解出来ない私は、全てのことを順序だてて説明してもらって整頓しなければ落ち着かない。






ちゃんが好き。夏休みなんていらない。毎日会いたいの。いいでしょう?」






 そんなことを言われて、私は何て返せばいいのか分からずに目を丸くしたまま口をぽかんと阿呆のように開いたままになった。“いいでしょう”なんて言われても、答えは決まっている。


「冗談なんか言わないで。テストなんだから真面目に受けなさい。成績に響いてるのよ?」


 まともに言葉を紡いだ自分の声に驚いた。先ほどまでの威厳を見せ付けるほどの勢いはどこへ行ったのだろう。声が上ずっていて自分でも信じられずに恥ずかしさで頬が赤くなる。否が応でも“なめられる”原因がここにあるのだと自分でも分かってしまう。しかし、そんな私などお構いなしに鏡音くんは私の頬に置いた手を顎に持ってきてぐいっと彼自身の方へと引っ張る。その力で後ろへ逃げ反っていた私の体が一気に前へと引き戻される。


「別に成績なんていらないんだ。僕はちゃんと一緒にいれる時間を手に入れるためだったら他に何もいらないよ。」


 この少年のような純粋な瞳のどこかに光る妖しげな光は、どこまでが真実か分からない。そもそも私は何故こんな少年に押されているのだろうか。


「あのね、そんなことを言って逃げようとしても通用しないから。鏡音くんは学生なの。理由はどうあれ、出来ることをしないなんて勿体ないよ。」


 必死に強がって未だに威厳を見せ付けようと頑張るものの、一向に声色は多少上ずっている。すると鏡音くんは呆れたように溜息を吐いて私から手を離した。そしてどかっと椅子にまた座る。


「あのさ、ちゃんって恋したことないの?」


「・・・っ、失礼ね、あるに決まってるでしょう?!」


 冗談っ気も全くない声色で彼に言われて、屈辱から私は若干声を荒げた。


「だって、誰が“学生は恋愛禁止。そんな暇があるなら勉強しろ。”なんて言ったの?ちゃんが学生の頃は、好きな人に好きって言ったら、皆が勉強しろって怒ったの?ちゃんは本当に恋することが不必要だなんて思ってるの?勉強ばっかりして、社会に貢献することだけを考えて、それが僕ら学生のあるべき姿だと本当に思うの?」


 がつがつと言葉を紡いでくる鏡音くんに私は言葉を詰まらせる。


「それは・・・。」


 私だって学生の頃は恋をしたし、勉強よりもその時の大切な思い出を作ることが大事だと言い張っていた。教師になったからといって恋が無駄だなんて思ったことは一度もない。むしろ、そういったことが人としての成長に繋がるというのは分かっている。しかし、鏡音くんの場合はそれが学業に影響が出ているので話は別だ。だからといってそれを上手く説明できる、彼を納得させられるような上手な言葉が私には思い浮かばずに、ただただ頭の中で様々なことを考える。鏡音くんはそれをも見抜くかのようにまた不敵な笑みを、先ほどよりも一層、濃く浮かべると形の良い唇を再びゆっくりと動かす。


「勉強なんてテキスト一つで分かりきっちゃうことだらけでつまらないよ。僕が今知りたいのはさ、好きな人のことだけだもん。」


 その知りたいことの対象が私だと言いたいのだろうか。何よりそれが事実だとしたら大きな問題に当たる。


「・・・恋はいい事だと思う。けどね、鏡音くんがもし本当に私のことを好きだと思ってるのなら大きな間違いだよ。」


 私は意を決して言う。すると鏡音くんは不思議そうな表情を浮かべるでも無く、悲しげな表情をみせるでもなく、その艶やかな笑みを浮かべたままだ。


「先生と生徒、だからって言いたいんでしょう?」


 彼からそう言うとは思ってもいなかった。どうせ“なんで?”とか言うのだろうと思っていたので、その分驚いた。


「分かってるじゃない。鏡音くんが私を好きだって思うのは、そういう“禁じられた”ものに夢を見てるだけなの。」


 自分の中で、この説明はとても上手いものだと思った。実際にそうだとしか思えない。何故、女の子にも人気があって、選り取り見取りの彼が私を好きになるかなんていう理由は、そこにしか思い当たらないのだ。すると鏡音くんは一度目を伏せて、ゆっくりとその瞼を開く。瞳を縁取る密度の高い睫の灯りで作られた影を揺らす。その瞳が私を見据えた瞬間、私は背筋が凍てつくような感覚で思わず怯んだ。あまりにも深く美しい空色が冷たく光った。


「僕の気持ちを馬鹿にしたいの?」


 私としたことが、彼の気持ちを傷付けただろうか。悲しみの中に映る怒りが見て取れる。


「そうじゃなくて・・・。とにかく駄目なの。」


 口説かれている意味も分からないまま、鏡音くんが言っていることが本当かも分からないまま、とにかく私は彼を落ち着かせようと口を開いた。


「そんなのはどうでも良いんだよ。ちゃんはどうなの?」


「だ、だから駄目なんだってば。」


 分かってくれない彼に、私は困りながら言葉を返すと、鏡音くんは未だに静かな瞳を揺らして口を開く。






「そんな建前なんかじゃなくて、僕のことは好きになれないかって聞いてるの。」






 それは一対一の人として、そういった肩書きを抜きにして考えろというのだろうか。それこそ無理な話だ。私は彼を生徒として接してきた。実際に今、一生徒としては違和感があるこの距離感で、生徒とは思えないほどの大人びた表情に怯みはしたが、普段はそれこそ可愛い生徒でしかない。今それを差し引いて考えろといわれても難しい。しかしここで適当に返せば彼を逆上させてしまうかもしれない。そして悲しませてしまうだろう。それだけは避けなければ、と私は必死に考えた。
 鏡音くんは確かにテストのことで揉めはしているが、それこそ授業だって真面目に受けてくれているし、クラスでも明るくてムードメーカーだという。そこに加えてその容姿端麗という事実は確かに私を含めて、女性ならば惹かれなくもない。ふと私は先ほど、この机を移動する時に何も言わずに手伝ってくれた。そしてこの机の上においてあるパックジュースも鏡音くんが買ってきてくれたのだ。こういう優しさは、少し嬉しい。


「・・・鏡音くんは、凄く素敵だと思うよ。明るいし、優しいし、格好いいし。もし私が学生でクラスにいたら好きになったと思う。」


 思ったことをそのまま伝えると、鏡音くんは口角をまた釣り上げて笑う。私はその意味が分からないまま、彼がまた少し身を乗り出して、私の手首を掴んでぐいっと手前へ引くのに従う形になった。私は椅子からお尻が浮いてしまって、変な体勢のまま机に空いた手を付いた。目の前にいる鏡音くんは私の顔の目の前で笑っている。


ちゃんってば馬鹿だね。そこで“好きじゃない”って言ったら良いのに。折角の逃げ道を自分で塞いじゃって。」


 そう言われて私ははっとした。自分の言ったことが、“この状況を打破する”にあたっては正しいとは言えない回答だったと気付く。しかし、そう思ったのは事実だし今更どう返せば良いのか分からずに固まっていると、鏡音くんはふんわり笑う。


「そういうちゃんが好きだよ。」


 私でさえどきりとさせられるほどの大人びた微笑を浮かべてそう言うと、彼の右手がまた私の顎を優しく掴んで唇を塞がれる。薄くて暖かい感触がさらりと触れる。私は抵抗も出来なかった。しようと思えば出来るのかもしれないが、なぜかする気にならなかった。茜色の夕陽が窓から差し込んで私の視界と頭の中がくらくらと揺らぐ。彼の唇が一度離れたかと思えば、私はまた何故か彼のその唇を欲してしまい、もう一度キスをせがむ。口内で交じり合う舌の生暖かい温度と唾液のぬるぬるとした感触。ゆっくりと唇が離れていくと、陽に照らされた銀糸がいやらしく光って、ぷつりと切れた。私は言葉が出てこなかった。キスを奪われたならまだしも、自らも求めてしまったのは無意識だった。何故か、この茜色の夕陽がとても気持ちを昂らせたのだ。それを思い返すと自分の失態に泣きそうになった。


ちゃん。」


 目の前にいる鏡音くんは少年のような瞳で私を見つめる。


「僕、ちゃんのこと、もっと知りたいよ。」


 艶やかな唇が先ほどよりも妖しく光るのは、二人の唾液がうっすらと色づかせているのだろうか。私はそこに目がいってしまって上手く目をあわせられなかった。


「・・・そんなこと、言われても。」


 私は言葉を詰まらせながら返す。すると鏡音くんは頬杖を付いて、私と無理やり視線を合わせてくる。動くことも出来ない程に絡めてくる強い眼光に、私は捕らわれてしまった。


「明後日からの補習、よろしくね。」










 何かが変わる音がしたが、蝉の鳴き声に掻き消された。




















―あとがき―
遅くなりましたが短編出来上がりです。マセレンです。
先生と生徒という設定はベタですよね。そしてこのストーリー展開もベタですね。
でも、今まで小説を書くに当たっても一度も書いたことが無い設定だったので、どうしても挑戦したかったんです。
今度はちゃんとレンくんも学生ですし、無理もそんなにないだろうと思って・・・。
楽しかったので、またこんな感じのもの書いてみたいです。

080729















































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